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「見世まで送る」
オオクマはそう言って立ち上がった。珠の進は思いもかけないことでびっくりしたけれど、嬉しかったので、いそいそと身支度をしてオオクマの後を追う。孔雀屋から車で珠の進を迎えに来た者は、オオクマをものすごく恨みがましいような目で睨んでいた。やがて見世に着き、とうとうお別れだと思うと流石に珠の進も少し気落ちしたけれど、オオクマが一緒に車を降りて、孔雀屋の主と話がしたいと言い出したので、またびっくりしてしまってゆっくりと落ち込む暇がない。
「うちの見世の主人と、ですか?先日の捜査の件でしょうか」
「どこだ?あっちか」
「あ、あの、困ります。ちょっと、クマさん」
「君は来なくていい」
オオクマは孔雀屋の玄関をくぐって、珠の進の帰りに気づいて飛び出してきた見世の者に、君んとこの大事な男娼さんはあそこだ、俺はちょっと、邪魔するぜとずかずかと上がり込んでいく。来なくていいと言われた珠の進は、追うこともできずに呆然と見送る。ああ、そうか。もう二度とこんなことがないようにと、雇い主に伝えるのか。うろうろと見世から出すな、目を離すなと。そんなこと、親父さんに言わなくたって、僕に言えばちゃんと弁えられるのに。楽しかった先ほどまでの気持ちが、ひやんと冷たくしぼんでいく。でも、後悔はない。珠の進は見世の者に付き添われて住居棟に戻り、自分の部屋へ帰った。珠の進の外出を心配していたすずらんが出迎えて、お茶を淹れましょうと声をかける。
「ありがとう、すずらん。ごめん、少しはしゃいでしまって、お土産のお菓子を買ってくるのを忘れてしまったよ。ごめんね」
「そんなの、よいのです。お兄さん、お外はいかがでしたか」
「寒いねぇ。雪が少し降って、綺麗だった。もう、止んでしまったね。残念だ。でも僕はまた雪が好きになったよ」
「……はい」
「すずらん。クマさんはね、僕をちゃんとここまで送ってくれんだ」
「さようでございますか!やっぱりオオクマさまは、おやさしいことでございますね」
「うん。優しいねぇ。それに、とてもちゃんとしている。今は親父さんとお話をしているみたい」
「親父さんと、ですか。なんのお話でございましょうか」
「さぁねぇ」
珠の進は出て行った時とあまり変わらない笑みを浮かべて、いつもの座布団に尻を乗せると、着替えを手伝う男衆が来るよりも前にポイポイと髪飾りを抜き、卓に転がしていく。すずらんはいてもたってもいられず、部屋を出た。
◆
オオクマが孔雀屋の親父と顔を合わせて話し始めてしばらく。突然現れた噂の男に、見世の者は少々冷たい視線を投げたものだ。暇ではない親父だが、珠の進のこととなれば相手をするしかない。慇懃に頭を下げ、部屋に招き入れた。お茶を出したっきり人の出入りもなく、いったい何をしに来たのか全く分からないので、見世の者たちは落ち着かなかったが、部屋の中の雰囲気は、それほど険悪なものではなかった。
「それで、この度のことは、こちらの落ち度だ、と、思う。お宅の見世の中で、お宅の商品に、金も払わず手を付けたんだから、まずそれを詫びます」
「はい」
「だから、花代を払います」
「失礼ながら、無理でございましょう。孔雀屋の珠の進の値打ちを、舐めてもらっちゃ困ります」
「噂には聞いてる。とんでもない金を出す客もいるんだな。ま、しょうがない。てめぇのやらかしたことだ。金に汚いのは性に合わんのでね。それに、こっちにも職務上の倫理ってもんがある。施しや性接待は論外です」
「さようでございますか。何をいまさらと、正直思いますが、ま、でしたら請求書をお送りいたしましょう」
「割賦はききます?」
「冗談がお上手でいらっしゃいますね」
「結構切実なんだが……うん、どうにかします」
「ご愛顧ありがとうございます」
「……ところで、あの、珠の進ですが」
「はい」
「失礼します!」
「こら!待ちなさい!」
いろいろと他愛ない話をし、お茶を飲み、ようやくぼちぼちと本題に入りそうになったその時、大きな声を上げて止める誰かを振り切って、孔雀屋の親父の部屋の襖を勢い良く開けて転がり込んできたのは、すずらんだった。親父もオオクマも、何事だとびっくりする。
「やめなさい、すずらん!来客中だぞ!」
「お許しねがいます!すずらんにはかくごがございます!」
小柄なすずらんの文字通り首根っこを掴んで部屋から引きずり出そうとする見世の者を、孔雀屋の親父が乱暴はおよしなさい、みっともない、騒がしい、うるさいよと窘めて、すずらんの暴挙を許した。つまり、見世の者の方を部屋から出し、すずらんにどうしたのかと聞いたのだ。すずらんはその小さな足で駆けてきたのだろう、まだ少し息を乱しながら、髪も乱れて、それでもきちんと正座をして両手を畳につけた。孔雀屋の親父は、言いたいことがあるなら聞いてあげるよと促した。
「ありがとうございます、親父さん。すずらんは、オオクマさまと、お会いしたことがございます」
「そうか」
「オオクマさまは、とてもおやさしい方でございます。珠のお兄さんが、おしたいするのも、しかたないくらい、おやさしい方でございます」
「そうか」
「親父さんにおかれましては、どうか、珠のお兄さんとオオクマさまの仲をおみとめくださいますよう、このすずらん、おねがいを申しあげたく無礼をしょうちで参上いたしました」
「そうか」
すずらんはまなじりをきりりと上げ、立派な口上を述べ、人形のようなその見た目とは裏腹なほどの情熱で、孔雀屋の親父を説得した。オオクマとはたった一度、珠の進の元へ案内しただけのことだ。そしてお菓子をもらった。オオクマの優しそうな笑顔と、それを見る珠の進の目。その時のことを、なぜだかわからないが鮮明に覚えている。澄んだ鈴の音が聞こえたような記憶。きっと特別な瞬間だった。そこに立ち会った自分は、きっと役目がある。すずらんの頭には、毎日長い時間をかけて一通の手紙をしたためる珠の進の姿が浮かんでいる。
小さな身体をぱたりと折って、すずらんは自分の手に額を乗せるほど深く頭を下げた。
「親父さんには、このように伏しておねがい申しあげます。そして、オオクマさまにおかれましては、どうか」
そこまで言ってからすっと顔を上げて、オオクマの方を見据えた。まだ子供だ。でも、その黒く大きな目に宿る気迫は、一端のものだった。オオクマは何も言わず見つめ返す。
「オオクマさまにおかれましては、どうか、珠の進という宝に不相応な扱いのございませんように」
「……承った」
すずらんはもう一度頭を下げて、丁寧にお詫びと暇乞いをして部屋を出て行った。見世の者が怒っている声がして、すずらん!と叫ぶように呼ぶ珠の進の声がひときわ大きく聞こえたところで襖は再び閉じられた。オオクマは、ふーっと大きな息を吐いて、おもむろにお茶を飲む。
「うちの子が、ご無礼いたしました。躾の行き届かないことでお恥ずかしい限りでございます」
「謙遜など、俺には必要ありませんが」
「そうですか。そうですね。すずらんはいい子です、ごらんのとおり。珠の進もいい子です、ご承知でしょう。私はうちの子を大事にしない人間を許しはしません」
「本日、お宅の珠の進としばらく話をしました」
「はい」
「まあ、本当に他愛のない話しかしていません。天気だとか、時勢だとか、そういうやつです。俺は面倒ごとを遠ざけて生きていきたいし、彼は全く感情的ではなく、むしろ職業的で、とても上手に俺との会食を楽しいものにしてくれました」
「はい」
「それで」
孔雀屋の親父とオオクマが話している間、珠の進とすずらんは手をつないで、部屋の前の板敷きの廊下で正座をして二人が出てくるのを待っていた。さすがに珠の進だけでもと見世の者が座布団などを持ってきたけれど、硬く冷たいところから動かなかった。やがて襖が開き、何やら挨拶らしき言葉を掛けながら出てきたオオクマは、廊下に座る二人を目にすると、よっこらせとおっさんくさい掛け声とともにすずらんの正面に胡坐をかいて同じように座り込んだ。あっという間に尻が冷える。
「さて、すずらん、君は」
「おそれながら、先にお詫びをさせていただきたく存じます。大変失礼をいたしました」
すずらんは珠の進とつないでいた手を放し、ぎゅっと自分の着物を握りしめると、白い顔で声を震わせながらオオクマに頭を下げた。珠の進はその様子をじっと黙って見つめている。オオクマは、肩をすくめて、まあまあ、顔を上げなさいよと言った。
「すずらん、俺はこの間、君をとてもかわいい禿だなどと言っていたが、あれだな、君はかわいいのはもちろんそうだが、とてもかっこいいな」
「……わかりません」
「そうかい。部屋に飛び込んできた君は、とてもかっこよかった。啖呵の切り方も見事なもんさ。おじさんびっくりしちまったよ」
「オオクマさまはおじさんではない、と、……思います」
「ふふ。ありがとよ。ま、俺は俺で、おじさんの中でも割とかっこいい方のおじさんなわけだが」
「はい」
「君はとても勇敢で、立派だね。それに俺なんかよりとてもやさしい。さっきのことは、うーんそうだな、お行儀はよくなかったから、そこはお兄さんや見世の人に注意されるかもしれないが、それ以外は何も悪くない。だから、びっくりしたでしょ?って笑っていればいいさ」
「ありがとう、ございます。えっと……」
「うん」
「びっくりさせてしまって、ごめんなさい」
「構わんさ。ごめんなさいが素直に言える君は、かわいいしかっこいいし、とてもえらいよ。きっと、面倒を見ている人がいいんだろう」
「おそれいります」
「承った件は、ちゃんと考える。俺だって、ちょっとはかっこいいところを見せたいもんだ」
「ありがとうございます。よろしくおねがいいたします」
すずらんは再び頭を下げた。ずっと無言だった珠の進も両手を廊下につき、深々とオオクマに頭を下げた。オオクマはあー寒い寒い、二人とも冷えるから早く部屋に戻りなと急かすだけ急かして、自分もさっさと帰って行った。オオクマの大きな背を、重そうな足音を、珠の進は大事に記憶した。
「二人とも、ちょっとおいでなさい」
「はい」
「はい」
オオクマの退場を見届けて、孔雀屋の親父が珠の進とすずらんを部屋に呼ぶ。聞かされた話は、意外なものだった。
◆
「あーーーーーうまい。熱い鍋つっつきながら冷やってのが最高だな」
「うん。おい、それもう食えるぞ」
「ああ、ありがとう。多岐も食え」
「うん。入れてくれ」
オオクマと珠の進が会食をしてしばらくのちのこの日、オオクマと多岐は先日と同じ店で鍋をつついていた。二人とも冬になると何度かこの店の鶏鍋を食べる。絶品なのだ。
「それで?」
「うん?」
「どうだった、珠のとの食事は」
「めちゃくちゃうまかった。ご馳走様」
「それは何よりだが、そんなことを聞いてるんじゃない」
「だよな」
はははとオオクマは笑って、硝子のぐい呑から美味そうに酒を呷り、ここのところの激動を思い浮かべる。どう言えばいいだろうか、この旧知の男に。金色の目が、じっとオオクマを見つめている。
「俺はな、本当に、あの男娼さんにもう関わるつもりは気はなかったんだ。何度も言うが、面倒なことになるのが目に見えているし」
「うん」
「でもなんだか、よくわからんが……滾ってなぁ」
「滾る」
「コト一番の男娼なんて、派手好きで我がままで華やかなものだと思っていたが、なんというか、いじらしい?なんかそう思ってな」
「へぇ」
「情だとかそんなんじゃねぇけどよ。もう、いいかって。あっちはどうせすぐ飽きるだろうが、好きにすればいい、うっかり寝ちまったんだしって」
あの会食の日、もし珠の進がオオクマに縋っていたら、オオクマは珠の進に優しくすることはできなかっただろうと思う。そうでなくとも、そのようなことを匂わせれば、警戒し、おかしな雰囲気になる前にさっさと食事を切り上げて帰っただろう。あんなにのんびりと世間話をして長居していたのは、珠の進があっさりしていたからだ。途中から、好きだのなんだのという話は多岐の思い過ごしだろう、届く手紙も接客業の習いだろうとさえ思っていた。別に、自分は特別慕われている相手ではないのだと。そう考えたら気が楽になって、ますます珠の進との会話を楽しんでしまった。しかしやがて雪が止み、まるで逢瀬は雪の間だけと決めていたかのように、珠の進が居住まいを正して、その日一番の微笑みを浮かべて言った。初恋は実らないけれど、男娼でよかったと。
男娼でよかったなどと、なぜ言えるのだろうか。ほかにいくらでも職業はある。貴賤はないなどと言ったって、辛いことは多いはずだ。そして今、オオクマは珠の進がコト随一の男娼だから敬遠しているのに。実らなくとも、男娼だからこそ得られたたったひと夜のあの偶然のような出来事があればいいということなのか。そこまで潔く思い切れるものなのか。そう思ったら、急に珠の進が近くに感じた。誰だって、誰かに大切に思われることは嬉しいし、気を許すきっかけになる。気を許してしまえば、甘くなる。そもそも長い付き合いである多岐の友人だ。深入りする義理はないが、邪険にする理由もない。だからオオクマは少し考えて、珠の進の気持ちも大事だろうが、まずは孔雀屋の意向を確認しようと見世へ出向いたのだ。
孔雀屋の親父には、どうお考えですかと聞いた。あちらも商売だ。もし仮に珠の進が全く客を取らなくなったとしても、孔雀屋にいるだけでよい風が吹く。引退するとなれば、珠の進という大看板を失うし、ではそれに代わる看板をという問題が出る。孔雀屋の親父は、お前に関係ないだろうという気持ちを全く隠そうとせず、笑った。
「もし本当に、あの子が本気で孔雀屋を出たいと言うならば私は止めません。いつか必ず珠の進だっていなくなりますから」
「そうですか」
「ただ、これは現実です。あの子がコトの街で生きていくのは現実の生活です。手放しには賛成できないというのが正直なところです」
「ごもっともです」
「初恋らしいんですよ、厄介なことに」
「だそうですね、厄介なことに」
「もう少し適当に、身近なところで、惚れたり泣いたり立ち直ったりを経験しておいて欲しかったんですが」
「客なり見世の者なり」
「ええ。もっと幼い、若いうちにね。そうやって学んでいてくれれば、"外の人"への恋心が生まれても、うまく折り合いをつけられたかもしれないのに、初めて恋をした相手が"外の人"なら、外へ出たいと思っても仕方がありません。我々だって、応援してあげたくなる。しかし、現実はそう簡単ではない」
「"外の人"ですか。なるほど。それで、俺に興味を持ったんですかね。俺は"外の世界"なんでしょうかね」
「さあ?ただ、あなたが思うほど、珠の進は愚かでも虚けでもありませんよ」
孔雀屋の親父は、きっぱりとそう言ったが、オオクマにはいまいちピンと来なかった。珠の進を愚かだとか虚けだとか、思っていないからだ。そもそもそんな人間はコトではまともに生きていけない。
オオクマは孔雀屋の親父に、珠の進がもし望んで、見世がもし許すのなら、うちへ通って来て構わないと伝えた。オオクマの自宅は職業上防犯対策は万全で、家に入ってしまえば悪党の侵入はあり得ないから誰かに襲われることはない。どのくらいの頻度なのか、泊まらせるのか、好きなだけ滞在させるのか。全部そちらで決めてくれていい。あいにく送り迎えは出来ない。鍵はこれだと、孔雀屋の親父に自宅の鍵を差し出す。
「情が湧いたわけではないのですが、俺は確かに、彼を好ましく思う。彼が俺の傍に来ることで気が済むのなら、そうしてやりたいと思う程度には、好ましく思うのです」
「さようでございますか」
「彼のやりたいようにすればいいし、それに付き合うことは俺にとって負担でも苦痛でもないようです。多少の責任も感じますから、協力させていただきたいということです」
「さようでございますか」
「通う方が、きっとあなたを始め、皆さん安心できるでしょう。やりようは、任せます。俺は仕事で家を空けることも多いから、そのあたりも考慮していただいて」
「さようでございますか」
「言うまでもない事ですが、性交渉はしませんし、それに近いようなこともさせません。彼がここの男娼である限り、金も払わず好意につけこむような真似は、まったく理屈に合いませんので」
「さようでございますか」
「ご主人は、ご自身の初恋を、覚えていらっしゃいますか」
「私ですか?ええ、まあ」
「実りましたか」
「実りませんでしたよ。何せ人妻でしたから」
「そうですか。俺は隣の家の年上の人でした。でも、好きだと思ってまとわりついて、ある日一気に覚めました」
「ほう。それはまたなぜ」
「それが、覚えてないんですよ。そのくらい、きっとつまらないことだったんだろうと思います」
「つまり、うちの珠の進も、今は舞い上がっているけれど、オオクマ様のつまらないところを目にして一気に覚めるだろうと」
「あまり愉快ではありませんが、まあ、そういうことです。たった一度、偶然枕を交わしただけのしがない警察官。俺は一緒にいてそれほど面白い男でもありません。早晩そうなったとき、通いの方が、孔雀屋に戻りやすいでしょう」
「お気遣い、痛み入ります」
孔雀屋の親父は、冷ややかに笑い、ふんと鼻を鳴らした。
今後客を取るのか取らないのか。珠の進が面倒を見ている部屋付きの禿たちをどうするのか。もしオオクマのところへ入り浸って留守がちになるのならその辺りも考える必要がある。珠の進は孔雀屋の従業員だ。雇われている以上、孔雀屋の親父の言うことを聞くべきだが、その話し合いにまで、オオクマがとやかく言うことではない。あくまでも、オオクマは、受け入れるだけの立場をとった。来るんなら、来てかまわないと。気が済んだなら、いつでも孔雀屋に戻ればいいと。
そういうやり取りが、あの会食の後あったのだと、オオクマは多岐に説明した。多岐はふんふんと頷き、相槌を打ちながら聞いていて、随分段階を踏むものなんだなとちょっと変な顔をした。
「お前と珠のがよいのなら、親父さんを説得して、遠慮せず同棲すればいいんじゃないのか」
「多岐、長い付き合いだが、多岐、お前は本当に時々何も考えてねぇな」
「失礼だな」
「何度も言ってる。この話は、彼の問題だ、彼の気持ちの。おままごとみてぇな初恋ごっこなんだ。俺はたまたま縁があってそれに付き合っている。そのうち終わる。俺には、手に余る、身に余る」
「終わっていいのか」
「いいかどうかじゃない。終わるんだよ、そのうち」
「お前はそれでいいのか」
「彼がいいならいいんだよ、俺は」
「へぇ」
オオクマが帰った後、珠の進と、親父と、心意気を買われて同席を許されたすずらんの三人が話し合った結果、珠の進はもちろん行きたいと言い、オオクマが自宅にいる夜だけ泊まりに行くことになった。ある日オオクマが家に帰ったら明かりがついていて、玄関を開けたらそこに正座して待つ珠の進の姿があった。少し頬を赤らめて、照れくさそうに、でも嬉しそうにオオクマを出迎えてくれた珠の進を見たら、理屈もなく、滾ってしまった。つまり、嬉しいを通り越したようなものだ。もちろん、口には出さない。出さないが、珠の進が自分に飽きた時に未練なく手放せるという自信は一瞬で消えた。まずいとは思ったが、もう彼はここにいる。帰すなんて絶対に嫌だ。オオクマは、ニコニコしている珠の進を居間へ促し、一緒に食事をした。そのあと、同じ布団で寝るわけにもいかないだろうと客間に来客用の布団を用意して案内したが、珠の進がしょんぼりと肩を落し、悲しそうに、だめなの?と聞くので、結局オオクマの寝台で一緒に寝た。畳に布団でしか寝たことのない珠の進は少しはしゃいで、落ちたらどうしよう、大丈夫かな?と、オオクマの寝巻の裾をちょっとだけ掴んで笑うから、どさくさに紛れて、落っこちるなよと抱き寄せた。夜が終わらなければいいと思った。誰にも言う必要のない感情だ。どうせそのうち終わる茶番なのだし。
「俺は面倒ごとは大嫌いなんだ。どうせすぐ俺に飽きてそのうち来なくなるだろうと踏んでいたんだぞ、本当に。それでいいと、今でも本気で思っているし、彼が気が済むようにすればいいって思っている。なんだかんだ、続いているが」
「滾ったくせに」
「うるせぇな、滾ったって、それは俺の腹ん中の話だ」
「腹を割って話せばいいのに」
「俺の腹ん中にきれいなものは何もない」
「へぇ」
「あの男娼さんは、外も中もきれいだがな」
「詳しいじゃないか」
「うるせぇ」
オオクマのぶつぶつと呟くような愚痴のような照れ隠しのようなつじつまの合わない白状に、多岐は途中から笑いをこらえながら酒を勧める。いつも飄々として、あまり誰かに振り回されたりする印象のないオオクマが、ずいぶんかわいらしいことを言うのでおかしいのだ。オオクマもそんな自覚があるから、少し自棄になって酒を呷る。
「おい、多岐」
「なんだ」
「そういえばお前、信じてるって言ってただろう、あの男を」
「ああ」
「ありゃ、どういう意味だ」
「どうって?そのままだ。珠の進という男を信じているってことさ」
「あぁん?」
多岐は笑いながら自分の硝子のぐい呑に酒を満たす。
多岐は最初から、もう一度会えばオオクマは珠の進を好きになると確信していた。
孔雀屋の親父は、オオクマが話に来た時、もう惚れている癖に何眠たいことを言ってやがるんだこの阿呆はと思っていた。
すずらんは、二人は最初から両想いで、孔雀屋の親父の許しさえあれば万事が上手くいくと突進した。
全員、珠の進の人の見る目を疑っていないし、オオクマの話を、言い訳を、信じていない。珠の進ともう一度一席設けることを了承したその時点ですでに、三人それぞれ、落ちたなと思ったものだ。
オオクマは顔を引きつらせている。
「なんだそれ!じゃあ、孔雀屋のクソじじいもあの珠の進ってピカピカした男娼も、芝居を打ったってことか!!あのいじらしさは嘘ものか!」
「まさか。お前は珠の進を侮りすぎている」
「クソじじいにも言われた、それ!侮ってない!愚かだとも虚けとも思ってない!」
「珠のは別に、お前に縋るつもりなどなかった。初恋に破れて本気で身を引くつもりの珠の進の引き際に、お前が勝手に惚れただけだろう」
「はああ!!??別に俺は惚れてなど」
「珠のは、ずっと初恋を待ち望んでいた。ようやく訪れた相手を見誤るはずもないし、小芝居など打たないし、一緒にいようが袖にされようが、飽きたり冷めたりはしない」
そんなことではない。ただ、珠の進は珠の進として生きている。自分も相手も、謀ったりなどしないのだ。そんな珠の進に惚れられて、誰が逃げられるだろうか。
「珠の進だからな、孔雀屋の。舐めてもらっては困る。お前くらい、振り向かせられない道理がない」
奇しくも孔雀屋の親父と同じセリフを口にして、多岐が酒を呷る。みんなの思惑通りに動いてしまったらしいことが恥ずかしくて、オオクマはうなり声をあげている。ちなみにすずらんは、本気で見世を追い出される覚悟だった。みんな、小芝居などとは無縁の世界で生きている。なぜか?いざとなれば、そんなものは通じないと知っているからだ。
「俺だけか」
「うん?」
「俺だけ、右往左往して、したり顔で親切めいたことを恩着せがましく」
「そうだな。ものすごくみっともないな」
「多岐、お前、鬼のようだな……」
「そうかい?」
今日も、家に戻れば珠の進がいるだろう。それが、嬉しい。決して惚れてなどいないし、珠の進がもう飽きたと言えばそれまでだとわかっている。でも今は、珠の進は楽しそうにしている。いつまでもは続かないかもしれないけれど、あの男は、オオクマにとってとてもかわいい。
「いずれ終わるとはいえ、その、なんだ、後悔はよくないだろう」
「まだその姿勢でいるのか」
「ほっといてくれ」
「見栄や意地も、あんまり張ってると疲れるぞ」
「お前の話でいけば、俺がその、なんだ、彼を、まあ、邪険にしないのは」
「滾ったからだ」
「それはもういいっ。お前とかあの狸じじいが、なんだ、色々そういう風に見立ててるだけだ。本人はそう思ってないし気づいてないなら、同じことだ。お前らが黙ってりゃいい。あの男娼さんの気が済むまで俺が付き合う。それだけだ」
「お前、疲れているのか?全くつじつまが合わんことを何度も何度も」
「うるせぇ。とにかく、それでいく。そうすりゃ面倒は起きん」
「まあ、好きにすればいいさ。お前に逢えるって、珠のは喜んでいた」
「……世話んなったな」
「ああ、最後に一つだけ俺からのお願いを聞いてくれ」
「なんだ」
「珠のを、大切にしてくれ」
多岐は、真剣な顔でオオクマにそう言った。なかなか難しいことを言うなと、オオクマは思った。返事ができないでいると、珠の進は突然壊れるから注意深く扱えと重ねて諭された。オオクマの中には珠の進が勝手に来て、好きに遊んでいるだけという気持ちがある。確かに自分もあの男娼に執着した。しかし、そもそもはあちらが近づいてきたのだ。どう扱うべきかわからないし、あれ以来もちろん一度も寝ていないし、婚姻関係でもなければ恋仲というのも微妙なところだ。珠の進はなるほど自活は出来なさそうだが、そうっと触らなければ壊れてしまうような印象は皆無だ。快活で、よく笑うし、いつも機嫌がいい。
「珠のはお前が好きなんだ」
「初恋だなんだってふわふわした話は聞いたが、そういや実際に好きだとかは言われてねぇな。そもそも、天下の珠の進に好かれる覚えはない」
「この期に及んで往生際が悪いな、お前。格好悪いぞ」
「聞きたくねぇ」
「珠のは、嫌なことや辛いことから目を逸らす」
「ああそうかい」
「聞け。むかし、俺がそう教えた。嫌なことや辛いことは聞かなくていいし、見なくていいと。珠のはそれをよく守って、特に俺といるときは他人の声は聞かないし、周囲を気にしない。自分が意思をもって聞こうとしない限り、呼ばれてもあまり気づかない」
「仲のいいことだな」
「だけど、本人は聞いてない、見てない、感じてないと思っていても、実際は違う。傷は確実に重なって、急に血を噴く。そんなことがないように、傍にいるお前が、珠のを守ってくれ。孔雀屋の外には、珠のの知らない苦労がある」
「お前がしろよ。俺は忙しいんだ」
「珠のの傍にいるのはお前だ。惚れた人間くらい、大事にしろよ」
「惚れてない。もったいないっつーか、惜しいと思っただけだ。貧乏性だな。孔雀屋の珠の進がせっかく寄ってくるから手放すのが」
「まだそんなことを言うのか、本当に往生際が悪いな、お前」
「うるせぇって」
「とにかく、いいな。大事に、だ」
美しい珠は、ある日突然割れるぞと、多岐は重ねて告げる。オオクマは肩を竦めてみせただけだ。その割れた珠の破片は、俺のものになるのかと、考えたけれど口には出さなかった。
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