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賑やかで華やかな都市、コト。この国の政治経済文化の中心となり、栄え続ける街。他国と国境を接さない島国であるこの国において、コトはほかのどの都市とも違う。コトは、この国の要、砦、すべての国民の希望なのだ。
この国はかつて一度滅びた。わずかに生き残った人々は、こぼれる涙で作物を育てるような過酷な時代を経て、どうにか人間らしい暮らしを得、集落を形成し、長く苦しい時間をかけて、今の国を作り上げた。その歴史の中で、"最初の人たち"が何度も異口同音に言い続けたのは、失われる歴史を無くせということだった。有事の際には、慣習や文化や記憶が途切れる。優れたものも独特なものも、この国にあるすべてを失いたくない、もう二度と。だから、この国のすべてはコトに集約されることとなった。厳しい都市法で規制をかけ、万万が一にも再び国が災厄に見舞われた場合、総力を尽くしてももはやこれまでという窮地に陥れば、このコトだけは文字通り死守してみせる。そのためには多少の犠牲は厭わない。それがいいかどうかはわからない。それでも、そう決めた。失うことは、無に帰すことだ。確かにあったはずの文化が、信仰が、営みが、声が、なかったことになる。過去を失った先にある未来など、一体だれが望むのだろうか。
ありとあらゆるすべての技術や記録、出版物、その他諸々は、コトに提出され保管される。図面等の文書で正確に伝えられないような技術は、複数の後継者の育成が求められ、見つからなければコトから派遣された人間に伝承しなければならない。
コトに認められなければ、それは新しい技術や独自の思想であるとはならないことになる。何か新しいことを思いつき、それが自分に由来する原案であり、発想であると、そう言いたければコトのお墨付きが必要になる。コトの与り知らないものこそ、新しいものであるからだ。そしてコトは、コトの認可を得ない"新しいもの"を絶対に放置しない。この国のすべてを内包し、将来へ残すということが、コトの存在意義であるからだ。
この国で最大の都市であるコトでの商売を夢見る者は多いが、コトの厳しい規律を嫌う商人や職人もいるので、コトから開放された文化や商業、職人たちによる工芸は、地方で変化を遂げ、それを保護する地方自治体の力もあって、コト偏重のあからさまなこの国にあっても、国民からその制度を廃すべきだという声は上がらない。地方は地方なりに、独自の道を進んでいる。
そして何より、国が滅びるということが、どれほど恐ろしく絶望的な状況なのか、あれから気の遠くなるような日々が過ぎていった今でも、この国の人々は忘れていない。たとえ自分たちが死に、土地はひび割れ、すべてが消え失せたとしても、コトとコトの中身だけは護る。普段それを意識しなくなった今でも、いざとなれば古来より受け継がれ刷り込まれてきた価値観は、驚くほど明快に発動するだろう。
◆
コトに住むには、様々な許認可が必要だ。この国で最も新しい技術とモノがあり、日々新しい文化が花開いていくこの街で、商売をするのは楽ではない。しかし、ミハナは、ここでの暮らしが気に入っていた。
ミハナがコトに来たのは二年前だ。実家はコトから東に遠く離れた、この国で三番目に大きな都市で蝋燭屋「清白」を営んでいる。清白の蝋燭は質がよいのでとても人気がある。最高級品はなんと言っても、屋号と同じ名前を持ち、完璧な白さを誇る「清白」という蝋燭だ。灯る火の姿さえ一級品だと囁かれる。原料も製法ももちろん門外不出。三男坊のミハナが教えてもらえる道理はない。
ミハナは、兄二人、姉一人の次に生を受け、下には妹と弟が一人ずついる。長兄はミハナよりも十五も年上だ。ミハナが物心ついた頃には、長兄のスガはすでに工場で修行を始めていた。スガは口数が少なくて、笑顔も少ない。忙しく下働きに勤しんでいたから、一緒に遊んでもらったこともほとんどない。いたずらや悪いことや勉強を教えてくれたのは次兄と姉だった。そして、してはいけないことをやらかした時だけ、スガはミハナを呼んだ。
だけどミハナはスガが好きだった。叱られるときも、やさしさを感じた。グーパンでぶっ飛ばされたこともあるけれど、それ相応のことをした自覚があるので恨みなど湧かない。むしろ、スガ兄ちゃんつええええ!!と鼻血を垂らしながら嬉しくなった。蝋燭を作るのは力が要る。スガは、ふらふらしているミハナよりも、ずっと強くて大人で、頼もしい男だった。
「何をしている?」
「え?あ、スガ兄ちゃんっ!お仕事終わったの?」
「ああ。これは?」
ある日、ミハナは自分の部屋で蝋燭をいじっていた。ミハナの両親は堅実な人で、老舗「清白」を潰してはならないと、質素倹約を是としていた。実際にはそれほど倹しい生活を送ってはいなかったけれど、無駄な出費や華美なことを嫌い、自宅の灯りのほとんどが、製造過程で発生する不具合品だ。ほんの少し曲がっているとか、芯が中心に来ていないとか、多分、そのまま並べてもお客はわからないだろう厳しい基準を突破できなかった蝋燭たち。ミハナはそれらを失敬し、溶かして成型し直していた。
「友達が、もうすぐ引っ越すんだ。で、まあ、餞別に。お小遣い足りないからさー」
実際の火ではなく別の物理で周囲を明るくする器具はいくらもあるが、この国の人々は生活に蝋燭を取り入れている。ミハナは蝋燭が好きだ。火を点せば、どんな暗い場所も闇が消える。揺らめく炎とほんのりとしたぬくもり。離れる友達に、自作の蝋燭をあげたかった。自分の家の蝋燭は、ミハナの歳の子にはその値打ちが分かりづらいし、高い。原料は同じなのだから、多少形を変えたところで粗悪品にはならないだろうと思った。溶けた熱い蝋を素手では整形できないし、かと言ってさすがに金型を持ち出せばシャレにならないので、ミハナは以前に誰かから貰ったお菓子の入れ物に蝋を流し込み、芯をあえて端っこに挿した。お菓子の入れ物は分厚い硝子だったので、長めの芯がくたりと寄り添っても割れたりはしないだろう。硝子の縁を飛び出して、外側へ頭をたれた芯に火を点せば、まっすぐに立つ炎より、ちょっぴり頼りなげで面白いだろうと考えた。
「ふむ」
「だめかなー?」
「だめじゃない。いいと思う。しかし、やり直せ」
「えー!!」
「蝋を溶かす温度がまずかったのだろう。多分、火を点せば臭いが出る」
「うーん」
それから二人はゴソゴソと蝋燭作りに熱中し、それはそれは気持ちのこもった贈り物となった。翌日それを友達にあげたら、彼女は泣いて喜んでくれた。ミハナの淡い初恋の話だ。
ミハナは全く自分の家の家業に興味はなかった。学校へは勉強が好きなのと友達がいるのとで通っていたけれど、次兄や姉のように、家に帰ってまで教師をつけてもらうような教育は受けてこなかった。両親もミハナには将来は好きにしていいと言って育んできた。
この一件の後、ミハナは時々自分の部屋の蝋燭を、違う蝋燭に変えて遊ぶようになった。出来がいいものは、スガに見せた。スガは端的に助言をくれ、褒め、これを使えと自分がかつて下働きをしていたときに使っていた道具を譲ってくれた。ミハナにとってそれは、楽しい日常であり、決して将来を見越しての修行などではなかったのだが。
「よろしくおねがいいたします」
「よろしくおねがいいたします……?」
ミハナが学校を卒業した日。家族みんなの集まった祝宴で、スガが畳に手をついて両親に頭を下げた。手どころか、デコもつけている。スガが自分のことで頭を下げているのだと知ったミハナは、慌てて箸を放り出し、長兄の隣に並び、わけもわからず一緒に頭を下げた。
「基礎だけでいいので、ミハナに蝋燭職人としての技術を身につけさせてやってください」
「……ミハナは、蝋燭職人になりたいのか」
「…………………………はい。なりたいです」
父親は感慨深そうにミハナを見た。答えた本人は、自分の声を耳にして、ああ、そうだったのかと腑に落ちた。自分は蝋燭を扱う職人になりたかったのだと。蝋燭屋と蝋燭職人が身近すぎて、自分の家の基準しか知らなかった。だけど、時々作っていた、趣味に突っ走った風変わりな蝋燭を作ってよいのなら、それを商売にしてよいのなら、それはきっと自分の人生を楽しくするだろう。
ミハナはそっと、隣の長兄を見る。彼はまだ、じっと畳を見つめて、大きな身体を小さく折りたたんで両親に頭を下げている。父親も母親も、否も応も言わないからだ。ミハナはガバッと頭を上げて、真剣に両親の目を見つめ、そして、もう一度自分のデコを畳に押し付け叫んだ。
「おねがいします!蝋燭の作り方を、学ばせてください!!!」
ミハナの腹から出した馬鹿でかい声は、どうやら天にも届いたらしい。願いは叶い、ミハナは工場に入ることを許された。ただし三年と期限を切られ、いかなる理由があっても、最高級品「清白」の作業部屋を覗いてはならないし、工場で知り得たすべてのことを、他言してはならないと誓わされた。誓約書に教養の高さの滲む流麗な字で自分の名を書き、拇指に朱をつけそこへ押し付ける。ミハナが、職人を目指した瞬間だった。
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