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次の日の朝早く、柏木は身仕度を整えた。
深沢がまだ寝ているベッドの横に膝をつき、彼の寝顔を見つめている。
寝息が聞こえるくらい、ぐっすりと眠り込んでいた。
「フカっちゃん。ありがとうね。
君は自分が思ってるよりもずっとずっと
……いい男だよ」
そこまで言い終わると、深沢のおでこに軽く
キスをしてその場を後にした。
オートロックのマンションだったので、彼を起こすことなくそのまま部屋から外に出る。
始発の電車に乗るために最寄りの駅まで歩く。
その道すがら、様々なことが頭を過った。
連絡先は敢えて交換しなかった。
そうしたのは自分の気持ちに歯止めが利かなくなってしまいそうで怖かったからだ。
このままだと間違いなく深沢に恋をしてしまいそうだった。
そうなってもし彼に拒絶されたら、そのときの失望は計り知れない。
だったら、昨日は綺麗な想い出のままがいい。
そうやって昨晩の出来事を必死に割りきろうとした。
◇◇◇
あれから三週間。
久々に深沢と出逢ったバーへと赴く。
あの日以来、わざと足を運ばなかった。
これだけ時間を空ければ、向こうもとっくに頭が冷えているだろう。そして
『あれは一夜限りの戯れだった』
と思うに違いない。
もしかしたら元カノが彼のもとに既に戻ってきたかもしれないし、男と寝たのはやはり間違いだったと後悔しているかもしれない。
元彼といた時に味わった、あの絶望感。
あんなのはもう二度と御免だ。
僕はもう恋をしないとあの時に決めた。
柏木はそうやって考えて自分を守っていた。
しかしもう既に遅かった。
本人は認めようとしないが……
あの日、柏木は深沢に堕ちてしまった。
――――――――
行きつけのバーに通い始めたきっかけは、元彼である。まだ付き合いたての頃に「いい店がある」と紹介されて、それから足しげく通うようになった。
しかし別れた後、彼は一切顔を出さなくなった。マスターからそう聞いている。
逆に柏木は前と変わらず店に通い続けた。
何故ならば、あんな酷い別れかたをしたことに未練を感じていたからだ。
そして元彼には伝えたいことがあった。
いつも店に通っていれば、そのうちばったりと会えるかもしれない。
そのとき彼に一言謝りたかった。
もう全く憎らしくないと言えば嘘になるが、彼が浮気に走ったこと、最後に二人が喧嘩別れしたのは、自分にも少なからず非があったからだ。
別れたあとに初めてそう考えた。
もう一度やり直そうとは微塵も思わないが、とにかく一言だけ謝りたい。
ただ、それだけでいい。
あとはきっぱりと忘れる努力をする。
ずっとそう考えていた。
バーカウンターの左端にある席はいつも空いているので、そこを自分の特等席にしていた。
それなのに……あの日は見知らぬ男が座っていた。
いつもならば店の中に誰がいようとも、他の客には興味がない。
たまに彼らや彼女らと言葉は交わすとしても、自分から一緒に飲もうなどと誘うことは一度も無い。
だがあの日は違った。
自分の特等席に座る男の後ろ姿を見た瞬間、彼にとても興味が湧いた。
マスターと彼が話しているのを聞いて、自分もこの男と話をしてみたいという衝動に駆られた。
彼の仕草や話し方があまりにも素のままで、ぶっきらぼうで、羨ましかった。
自分を飾らない……そんな人柄がとても良く滲み出ている。
正直な気持ちをごまかして周りにすぐ気をつかってしまう偏屈な自分とは全く正反対であった。
気がつくと自分から声をかけていた。
そして深く知れば知るほど……彼は思っていた以上に魅力溢れる男だった。
――――――――――
そんなことを思い返しているうちに、ようやくバーに辿り着いた。入り口に立ち、そっと扉を開ける。
「いらっしゃいませ、お久しぶりです」
マスターがいつものようにとびきりの笑顔で、出迎えてくれた。
だがそれだけではない。
「よう! 久しぶり。元気だったか? 」
店の中にいたもう一人が、柏木にそう声をかけてきた。
この前と同じく、一番左端の席に座っている。
柏木は思わず泣きそうになった。
だが必死にそれを隠し、笑顔でこう尋ねる。
「隣、いいですか? 」
神様。
……これ以上のことは望みません。
だからどうか……この人の近くに、出来るだけ永くいさせてください。
そう願わずにはいられなかった。
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