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そう言う溝口さんに対し、柏木は話題を変えたくて何となくこの前のことを口に出した。
「あの。エレベーターでは……お見苦しいところをお見せしてしまって、すみませんでした」
溝口さんは柏木から目線を斜め上に運ぶと、苦笑いをしながら答えた。
「あ……ああー。その節はだいぶ盛り上がってらっしゃったみたいで」
柏木もばつが悪そうにして笑顔を作った。
「でも、何だか良い時代になったわよねえ」
「え? 」
「ほら。このご時世、あなた方みたいな人たちを結構お見かけするでしょ。『LGBT』とか言うんでしたっけ」
「ああ、はい。確かに最近多いと思います」
溝口さんは優しい目をさせてにっこりと柏木に笑いかけた。
「自分の本質をねじ曲げることなく、気兼ねなく生きられる社会って、本当に尊いものよね。その事で気持ちにあまり負担をかけずに、生き生きとしていられるんだもの」
「ええ。そうですね」
柏木もそれには思うところがあるようで、穏やかな顔で相槌をうつ。
「それでもまだ世間では何かと生きづらい部分があると思うけれど。
全く恥じることではないのだから。自分の気持ちをずっと誤魔化さずに、正々堂々としていたいものね」
柏木は彼女の言葉がスッと心に入ってきた。
それが自分に対して贈ってくれた何の含みもない真っ直ぐな思いだと感じ取った。
だから嬉しくなって口角を上にあげた。
「……はい」
二人で笑顔で見つめ合っていると、柏木の携帯に着信があった。
「はい。もう着いた? 」
深沢からだった。
「今、大和の後ろにいるんだけど……誰? 横の人」
柏木はすぐに後ろを振り返った。
◇◇◇
結局今度は深沢が、お隣の溝口さんのエコバッグを玄関先まで運んだ。
「ありがとうね。本当にあなた方には助けられたわ。これ、一本もらってちょうだい」
溝口さんはそう言うと、二人で運んだ1,5リットルペットボトルの烏龍茶をくれた。
「もう少ししたらお客さんが来るのでね。コンビニにちょっとスイーツを買いにいったのよ。そしたら、店員さんがスピードくじを引いてくださいと言うじゃない。だから、二枚引いたの。そしたら、おめでとうございますって、こんなに重いのを二本も貰ったのよ。せっかく当てたのに置いてくるのが勿体ないから、頑張って運んでいたの。けれどもう限界で。
そしたら丁度お兄さんが持ちましょうかって声をかけてくれたのよ。とても助かったわ。ありがとうね」
彼女は深沢が変な誤解をしないようにと気をつかったのか、彼に対して今までの経緯を細かく説明した。
「あ。ありがとうございます」
深沢は素直にそれを受け取った。
「あ、あとね。この前まで変な誤解をしてしまってごめんなさいね」
「はい? 」
溝口さんが、小声で深沢に向かって囁いた。
「私ね、あなたが二股かけていたと思ったの。何ていい加減で酷い人なのかしらって。あの前のお嬢さんが可哀想だと。それであんな態度をとってしまったわ」
深沢は呆気にとられた。
完全に思い違いをしていたからだ。
溝口さんが自分を嫌った理由は、エレベーターで良い歳をして、あんなことを『男同士』でやっていたからだとばかり思っていた。
彼女はそういうことに理解のある人なんだと、知った。
「それじゃあね」
「どうも。おやすみなさい」
そう挨拶を交わすと、お互いの部屋に入った。
◇◇◇
溝口さんの部屋に、訪問者が入った。
彼女が腕によりをかけて作った夕飯を二人で食べたあと、特別な人をとびきりのスイーツと香り高い珈琲でもてなす。
「みっちゃん。クラフトバンド、どこまで進んだ? 」
「まだ全然よぉ。ナオちゃんは? 」
「私もなのよぉ。来週先生に出来上がり見せなきゃならないのにね。切羽詰まらないとしないのは、昔から二人とも同じね」
「本当ね」
フフっと笑って二人とも珈琲を口に運ぶ。
「あのね。今日とても良いことがあったの」
「あら。どうしたの? 」
「お隣の部屋の若いカップルとね、ひょんなことから色々とお話が出来たのよ」
「へぇ。この前言ってた人たち? あのエレベーターで……」
「そうそう。でもね、私誤解してたのよ。お隣さん、彼女とはとっくに別れてたんですって。だからあの二人、堂々とお付き合い出来る関係だったのよ」
みっちゃんと呼ばれる女性が、へえと顔を綻ばせて頬杖をついた。
「お隣さんのお次の恋人。ものすごく可愛らしくて、優しいイケメンさんなのよ」
「あらぁ。素敵じゃない。私たちと同じね。その人を好きになってしまったら、性別なんて関係ないわ」
「そうよね。なんだかほんと、親近感が湧いちゃうわぁ」
隣合う部屋で、それぞれ惚れたもの同士が仲むつまじく同じ時を過ごしていた。
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