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EP.4 俺を見て
つい先日のこと。行きつけのバーのマスターがぎっくり腰になった。
店の定休日、自宅でガーデニングに精を出していた時の不運らしい。
彼は店で出すカクテルに添えられるものを思い付く限り自分で育てていた。
ペパーミントにラベンダー。ミニトマトにシソ、パセリ。これらに甲斐甲斐しく水をかけてやったあと、ワイルドストロベリーの株分けを行っていた。このハーブというのがまたとんでもなく強くて育てやすい。そしてものすごい繁殖力である。生の葉には毒素があるから摂取することはできないが、これを天日干しにしてカラカラに水分を除けば、むくみや痛風などに効くハーブティーの出来上がりだ。
それらの株分けが終わり、立とうとした瞬間に……ギクリとやってしまった。
奥さんが家の中にいたから良かったものの、もしも一人きりだったならば相当悲惨なことになっていたであろう。
そんなわけで当分バーを閉めるので、深沢たちはお互いの家の近くの居酒屋を開拓することにした。
今日は深沢の家の近くの店に入った。
内装はオーソドックスで海鮮メインの居酒屋である。
入口のすぐ右側には、二、三人が入れるくらいの個室が横一列にずらりと何部屋も並んでいた。
ゆっくりと話が出来るので、その一室に腰を下ろした。
暫くいつもの如く取り留めの無い会話をしていた。すると丁度話が途切れ、沈黙が訪れた。
そのせいか、隣の個室にいる客たちの話し声が耳に入ってきた。
向こうは酔いが回ってきたのか声はどんどん大きくなっていき、その気がなくてもこちらにその全容が丸聞こえとなる。
自分たちの他にも客がいるということを、どうやら忘れてしまっているらしい。
「どうした大和」
そわそわして何だかいつもと様子の違う柏木に深沢が声をかけた。
「え。何が? 」
柏木は平然を装っているが、明らかに何かおかしい。
先ほどから急に浮かない顔をし始めた。
最初はとても楽しそうに海鮮料理に舌鼓をうっていたのにである。
彼の様子を観察し続けていると、隣の個室からまた声がした。
「あんたの元彼、薬局で働いてるだろ」
「そうだよ。何で知ってるの」
「この前初めて行った薬局で処方箋貰ってきた時さ。どこかで見たことあるなって思ったんだよね。確か柏木とかいう、名字だった」
「ああ、そうだよ」
「間近で見たらすごく可愛いかったね」
そこまで相手の会話が筒抜けになって初めて、深沢は柏木の異変の理由にやっと気が付いた。
急いで彼に目をやると、いまにも泣きそうになっていた。
だが隣の会話はどんどん続く。
「だからどうしてあの子が元彼だってことを知ってるの? 」
「や、前に一緒にいるところ見たんだもん」
「いつ?」
「丁度あんたがあの子と俺に二股かけ始めた辺りかなあ」
「知らなかった」
「黙ってたから。……なあ。前から聞きたかったんだけど。何であの子と別れて俺のところに来たの。決定打は何? 」
深沢はどうして良いかわからずに固まっていた。
柏木はこの話の続きを聞きたいのか……
この場で今すぐに何か話題を切り出して、向こうの話を遮ることも出来たのだが、柏木がその先を知りたいのならば、深沢がしようとしているのは下世話なことである。
判断をすっかりと迷ってしまった。
そうこうしているうち、結局時は流れた。
「あんたがあの子よりもずっと魅力的だったから。何て言うのかな。人間としての器が大きいっていうか……遊びを知ってて余裕がある。あの子にはそれが無かった。一緒にいても、つまらないんだよ。一生懸命でひたむきなんだけど、お子様の恋愛って感じがして。向こうが可哀想だから暫く頑張ってみたんだけど、一緒に住み始めたら余計に冷めちゃって」
「酷い奴」
「言えてる。……やっぱりあの子に俺は似合わないよ。純粋過ぎて。見た目はドンピシャだから声かけたんだけど。中身は全然合わなかったなあ」
それを聞いた瞬間、柏木の頬に一筋の涙が伝った。
深沢はそれを見て、胸がぎゅうっと締め付けられた。
柏木はいたたまれなかった。
深沢の目の前でこんなにも惨めな自分を晒されるのが恥ずかしくて恥ずかしくて堪らなかった。
しかし、何も出来ずに時間だけが刻々と過ぎていく。
そんなことはお構い無しに、元彼たちはさっさと別の話題に移り、楽しそうに笑いながら会話を続けていた。
その時突然、深沢が口を開いた。
「大和。俺を見て」
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