EP.1 一寸先は、光

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「いらっしゃいませ」 店に足を踏み入れた瞬間、ドアに吊るされた綺麗な音色を持つベルたちが思い思いに揺れた。 そのままカウンターに進む。 長いテーブルの右端から左端、合計8席全てが空いていた。 一般的にはまだバーという時間帯ではなかったので、当たり前と言えば当たり前だった。 何となく一番左端を選んだ。 「ここ、いいですか? 」 「どうぞ」 グラスを磨きあげている最中だったこの店のマスターは、頭を少し傾け屈託のない笑顔でそう答えてくれた。 優しい。顔は悪役レスラーなのに。 席にゆっくりと座りながら深沢は心の中でそう呟いた。 「初めてですかね」 マスターは穏やかな表情でそう尋ねてきた。 「あ、ええ。よろしくお願いします」 「こちらこそ。よろしくお願いします。 どうぞ、メニューです」 彼は深沢の前にそれをスッと差し出した。 「どうも」 有線のジャズが店内に流れる。ピアノを奏でながら繊細かつパンチのある声で歌う海外の女性アーティストのものだった。 「懐かしい曲っすね」 人とこんな風に寛ぎながら話すのは何日ぶりだろう。 そんな事を思った。 「そうですねえ。私この曲好きなんです」 マスターは嬉しそうに笑う。 その笑顔がすごく安心できて、思わずこちらまで笑みが溢れてくる。 久しぶりに生きた心地がした。 「……」 ボサボサの髪を額からかきあげながらずっとメニュー表に食い入るのだが、どれを頼んだらいいのか全くわからない。 酒は会社の付き合いで、居酒屋などでたしなむ程度には飲む。 しかしいつも決まって最初に頼むのは生ビール。それから樽ハイ、焼酎コースへと移っていく。 だから、カクテルなんてものは今まで一度も飲んだ試しがない。 なのに街へ出てこんな柄にもないところにふらっと立ち寄った理由は、である。それでここへ辿り着いたのだ。 家飲みという手もあったが、一人寂しく酒を飲むのだけは絶対に嫌だった。 それほど人恋しかったのかもしれない。 「選ぶのにお困りのようでしたら、何かひとつ作ってみましょうか? 」 色々と考えを巡らせていたが、マスターの声で我に返った。 彼は、とても心地好い空間を提供してくれる。いつも絶妙なタイミングで話しかけてくるのだ。 深沢はこの店がとても気に入った。 「そうっすね。お願いします」 気に入るものが出来るようにと、マスターは次々と確認していった。 「炭酸とそうでないのがありますが」 「あ。じゃあ、そうでないやつ」 それに頷くと、更に聞いてきた。 「甘めと辛め、どちらがお好みですか」 「甘めで」 「ジュースでよく飲まれているものは、何かありますか? 」 「……オレンジジュース、かな? 」 「畏まりました」 その時、玄関のベルが揺れた。 「いらっしゃい。今日はお早いですね」 マスターは入り口の方を見つめながら挨拶をした。
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