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「こんばんは。今日は休みなんで。早めに来ちゃいました」
深沢は背中の向こうでする声がはっきりと聞こえてはいたが、ずっと下を向いて関心のないふりをした。
入ってきた男は、随分と物腰の柔らかな声をしていた。
深沢は、メニューを真剣に選んでいるふりをしてやり過ごす。
視界の外で彼がこちらに目をやっているのがわかった。
それでも、自分から話しかけるのは億劫なので不自然なほど頑として下を向いていた。
その魂胆を察したのか、男はマスターの方を向き直すと一番右端へ座った。
「いつもの順番で」
彼はそう言った。
「はい、少々お待ち下さい」
マスターはそう言って頷くと、シェイカーを顔の上にまであげてそこから圧巻のテクを
披露し始める。
まず始めに深沢のカクテルを撹拌する。
それが終わりシェイカーの蓋を開けて傾けると、綺麗なオレンジ色をした液体が細めの氷入りグラスにキラキラと注がれていく。
「どうぞ。スクリュードライバーです」
オレンジ一色で飾りは無しの、実にシンプルなカクテルだった。
「如何です。お口に合いますでしょうか」
マスターがにこやかにそう尋ねてきた。
「はい。飲みやすいです、とっても。
確か居酒屋で女子がよく頼んでるやつですよね、これ。スク……何とか」
グラスの縁を唇から離してそう答えた。
それと同時にふと右側から声がした。
「スクリュードライバー」
「あ。スクリュー……スクリュードライバー」
先程の男がいきなり自分に話しかけてきたので焦った。彼はこちらに向かってにっこりと笑いかけてきた。
「こんばんは」
「……こんばんは」
深沢は反射的に挨拶を返し、彼から目を背けないように努めた。
「お一人ですか? 」
目に飛び込んできたのは、まだあどけなさも残る随分と爽やかな青二才だった。
ふんわりと笑う柔和で端正な顔立ち。店のライトに照らされ艶めいているさらさらで綺麗なアッシュブラウンの髪。それらに思わず見とれてしまった。
戸惑いながらそのまま無言でゆっくりと頷いた。
「もし良かったら一緒に飲みません? 」
「えっ」
「あ、いや。無理にとは言いません。暇をもて余してらっしゃったら、という話でして。ご都合が悪いなら遠慮なく仰ってください」
大胆かと思いきや、きちんと人に気をつかえる男。空気の読める男。
……俺とは正反対だ。
そう思った。
「いいっすよ別に。暇なんで」
彼のペースに飲みこまれてついそう返事をしてしまった。
マスターはそんな二人のやり取りを微笑ましく眺めていた。
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