5人が本棚に入れています
本棚に追加
僕は下を見上げた。逆さまになったビル群の先端がこちらを指さしているのが見える。やっぱり今日も世界はひっくり返ったままだ。
世界がひっくり返ること自体は別に珍しいことじゃない。何度も何度も上下が入れ替わった日なんかは流石に大騒ぎだったが、二、三度ぐらいの入れ替わりはしょっちゅうだ。
けれどもこんなに長いこと空が下に、大地が上になったままなんてことは初めてだった。よりにもよってこんな時に空に落っこちてしまうなんて、僕はなんてついてないんだろう。
不幸中の幸い、空には柔らかな雪が降り積もっているので暮らしぶりは悪くない。どこでも寝られるし雪遊びをして退屈をしのぐこともできる。大地側から救援物資を落としてくれる親切な人たちがいるので飢えの心配もない。
「おはようございます」
「あ、おはようございます」
パージ―くんだ。彼も空に落ちてしまったうちの一人で、救援物資を取りに行ったとき出会い、会話を交わすようになった。
「今日も地面が上にありますね」
「そうですね、そろそろ世界がひっくり返ってくれても良いと思うんですが」
「ヴィエナ・ドーナツのドーナツが恋しいな。救援物資を送ってくださる方に連絡が取れるといいのだけど」
ヴィエナ・ドーナツを僕は知らない。彼の話に出てくるそれを一度食べてみたいと思うのだが、生活圏が違うようでどこにある店なのかよく分からない。
パージ―くんはいろんなことを知っていて、考えることが好きなようだった。深く雪を掘っているところを見かけたことがある。雪を掘りつくしたら空の一番底に行けるのではないかと彼は思ったらしい。特にすることもないので少し手伝ってみたが、どんなに雪をかき分けても空の底にはたどり着かなかった。
はたして空に底なんてあるのだろうか。足場になっている雪がなくなってしまったらどこまでも空深くに落ちてしまうのではないか、などと考え出すと怖くなってしまう。
怖くないのかと尋ねてみたが、彼は知りたいという気持ちのほうが勝るのだという。
「世界にはまだまだ分からないことがたくさんあります。何故世界はひっくり返るのか。世界の果てにある透明な壁というのはどんなものなのか。空には底があるのか。あるとすれば空の底はどうなっているのか。怖くなることもあるけど、私はやっぱり知りたい。何も分からないものの中にいるままの方が怖いじゃないですか」
どうだろう。何も分からないのは怖いことかもしれないけれど、こうして生きていけているのだから知らなくても問題ないような気はする。世の中には色んな人がいるものだ。彼にとってはこの災難も世界を知るためのチャンスなのかもしれない。
「今日も、雪を掘るんですか」
「今日は空の果てを探してみようと思います。世界の果てに透明な壁があるように、空の果てにも透明な壁があるかもしれません」
「……僕も一緒に行っていいですか。他にすることもないし」
彼は少し驚いたようだったが、こころよく了承してくれた。
そうして僕らは並んで雪の降り積もった空の上を歩いていった。落ちてきた車や自転車がぽつりぽつりと刺さっている。思ったより少ない。みんなしっかりチェーンで繋いであったのだろう。犬より猫を見かけるのも同じ理由だと思われる。人も見かけたので空の果てを見たか尋ねてみたが、見たという人は誰もいなかった。
そろそろ戻らなければ暗くなってしまう。帰り道、パージ―くんが呟いた。
「本当は私も知るのが怖いのかもしれません」
「空の果てを?」
「いえ、この世界自体のことです。何故今回に限って世界は中々元に戻らないのか。もう世界が元に戻ることはないのか。世界の理は狂ってしまったのか。空の果てを知りたいなんて、恐ろしい現実から目をそらすための言い訳に過ぎないのかもしれません」
このまま世界が元に戻らなかったら。僕らはどうなってしまうのだろう。
「すみません、こんな不安にさせるようなことを言って……」
僕が口を開こうとしたその時、空が揺れた。慣れ親しんだめまい。世界がひっくり返ったのだ。僕らは雪とともにゆっくり落下していった。
「……結局私の心配は必要なかったみたいですね。まあでも、こうして落下している間も退屈ですし、私の妄想を聞いていただいてもいいですか」
沢山の雪が舞っていてパージ―くんの表情はよく分からない。
「私は常々この世界は神様のおもちゃなんじゃないかと思っているんです。世界をひっくり返してはまた戻して、みんなの大騒ぎする様子を見て楽しんでいるというわけです。けれどもそれにも飽きて放り出してしまった。雑に放り出した拍子に世界はひっくり返ってしまった。今回はたまたま気づいてもらえて元に戻してもらえたけれど、いずれこの世界は神様から見捨てられたままになってしまうのかもしれない」
僕は考えてみた。世界がひっくり返るメカニズムはいまだに解明されていない。気まぐれな神様が世界をひっくり返してまた元に戻っていく様を見ている。なんだかありうるような気がしてしまった。何度もキラキラと雪が舞い落ちるさまを遠くから見ることができたら、それは美しい眺めかもしれない。
「最後まで私の勝手な妄想をお聞かせしてすみません。あなたには何故か心に抱え込んでいるものを打ち明けたくなってしまうのです。ご迷惑でなければまたお会いできませんか。よろしければヴィエナ・ドーナツでお会いしましょう」
雪が舞い落ちて、彼の姿が完全に見えなくなった。パージ―くん、と呼びかけたが返事はなかった。やがて地面に着地して雪も降り積もり終わって視界が開けたのだが、パージ―くんの姿はどこにも見当たらなかった。
あれからまだ世界はひっくり返っていない。神様は世界に飽きてしまったのだろうか。ヴィエナ・ドーナツも見つけていない。僕はパージ―くんに会いたいのだろうか。この先彼に会わなかったとしても、僕の世界の見方はもうひっくり返ってしまったけれど。
最初のコメントを投稿しよう!