初恋

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初恋

 翔陽と私を繋ぐ、チューリップの花束。  結婚披露パーティーの控え室に届いた、名前のない、三本だけのチューリップの小さな花束を見て、すぐにわかった。  これは翔陽からの、最後の花束だと。  だって、色が今までと違うから。  今までは赤いチューリップが三本だったけれど、これは黄色が三本。  『愛の告白』は『叶わぬ恋』に色を変えた。 「一応……誕生日プレゼント……」  春休み最後の日。四月三日。私達は明日から六年の教室に入る。  午後、翔陽君が小さい花束を持って、家に来た。  男子からもらう初めてのプレゼント。  ドキドキした。 「えっと……なんで……」 「ずっと前、教室で『誕生日が春休みだから、友達に祝ってもらえない』って言ってたじゃんか。だから……」  目を合わせないように、顔は斜めの方向にむけている翔陽君の耳は真っ赤だ。 「……じゃあ、遠慮なく……ありがとう」  私は受け取った三本だけのチューリップの花束を見つめた。赤い色のチューリップが開きかかっていた。 「かわいい」  思わず口に出た。 「だろ?俺が庭で育てたヤツだからな」  翔陽君は得意顔になって、胸を張った。 「えっ、そうなの?生花店で買ったんじゃなくて?」 「それじゃ、誰にでもできるだろ」  翔陽君のイメージとかけ離れすぎだ。翔陽君はサッカーに夢中で、少年団のサッカーの日以外もサッカーばかりやっているサッカーバカで、いつも服やソックスに砂が付いていて、靴は汚い。その翔陽君がチューリップを育てる? 「毎年……俺が育てて、リナの誕生日にプレゼントするからな」 「え……なんで……」 「同じ町内だから!」  翔陽君は最後は怒鳴って、うちの玄関をバタンッと大きな音を立てて閉めて、帰ってしまった。  クスクス笑う声が聞こえて、振り返ると、お母さんがキッチンで夕飯を作りながら、笑っていた。 「細い花瓶、納戸にあるから。リナの部屋に飾ったら?」  お母さんのほうが私より嬉しそうだった。  五回目の花束をもらった日は、高校の入学式の前日だった。  翔陽は赤いチューリップを三本、くるくるっと紙で包んだものを、毎年恒例のセリフと共に、私にぶっきらぼうに渡した。 「同じ町内だからな。俺が庭で育ててやった」 「……ありがとう」 「明日、入学式だな……」 「これからもよろしく」 「……しょうがねえな……」  私達は同じ高校に進学した。  どちらからともなく。なんとなく。  そんな曖昧な、しかしお互いを特別だと認識しているような関係が心地いいような、一歩踏み出す勇気がどちらにもないような、そんな間柄だった。  翔陽はサッカーで地元ではちょっと有名な選手になっていた。  中学時代からときどき 「リナと翔陽ってつきあってるんでしょ?」 と訊かれるようになっていた。  はっきり、つきあって、と言われたことはない。どうなんだろう。  ただ、よく目が合った。  放課後、女子の仲のいいグループ六人くらいで教室を出るとき。私はさりげなく一番後ろを歩く。廊下に出る前、チラッと翔陽の席に視線を移す。人気者の翔陽は何人もの友達に囲まれている。翔陽は人と人の隙間から私の姿を目で追っている。目が合った私達は一瞬、微かに笑顔になる。誰にもわからないくらい、小さな笑顔。  バイバーイ。  また明日。  私達だけにしかわからない、一秒ほどの、目と目の会話。  学校ではそれが当たり前になっていた。  高校でもそれは続いた。  隣のクラスに別れてしまった私達。  私のクラスの前の廊下を歩いていく翔陽は、必ず私を探す。私も翔陽が通るんじゃないかと思って、廊下をキョロキョロ見ている。目が合うと一瞬微笑む。ただそれだけ。会話もなにもない。  初めてのプレゼントの日からずっと、私と翔陽はお互いを特別だと思っているのだと、信じて疑わなかった。  だから高校二年のとき、翔陽が同じクラスのかわいい女子とつきあっている、と噂になったことは、ずいぶん私を動揺させた。  私はスマホで花言葉を検索した。  赤いチューリップの花言葉は「愛の告白」  高校生の男子が花言葉なんて意識しているわけないか……。  毎年誕生日にくれる赤いチューリップに、翔陽が私を好きだという意味が込められていたら、嬉しいのに……。でもあのサッカーバカが花言葉なんて、あり得ないか。対極に存在しているようなものだもの。  期待したぶん、あとで傷つくのが怖かった私は、必死に自分に言い聞かせていた。  高校最後の大会で、サッカー部は県大会準決勝で負けた。国立競技場でプレーする翔陽の夢は、三年間で一度も叶わなかった。  Jリーグの入団テストも、どのチームでもなかなか合格しなかった翔陽は、結局、地元のJ3のチームに入ることができたが、生活していけるほどの給料はもらえないため、サッカー教室のアルバイトを始めた。  私は大学に進学し、他県で一人暮らしを始めた。  それでも四月三日には、春休みだから、と理由をつけて帰省した。  十回目の花束のプレゼントの日、私達は玄関の上がり框に座り込み、肩を並べて話をした。  幼なじみで、保育園から高校まで一緒で、家も二百メートルくらいしか離れていなくて、ずっと誕生日に花束をもらっていた仲なのに、二人でじっくり話をすることは初めてだったかもしれない。 「大学、どうよ」  横に並んで座り、お互いの存在を感じながらも、顔を見ないで話せる気楽さから、本音を話せる気がした。 「普通に勉強だよ?」 「一人暮らしだから、羽伸ばしてんだろ?」 「そんなの、お金がある人だけだよ。私は大学とバイトしか行くところないよ。翔陽は?遊んでるの?」 「そんな暇も金も体力もねえな。チームの練習とバイトでいっぱいいっぱい。実家から通って、親に身の回りのことやってもらって、やっと生活できてる」 「……厳しい……ね……」 「……ん」  翔陽が所属するチームはJ3の中でも下のほうの順位で、J2に上がれる可能性はゼロに等しかった。 「でもチューリップは育ててくれたんだ?」  私は蕾が少しだけ開きかけている三本のチューリップを見つめた。赤い色が蕾の先端から見えている。 「今回、全部蕾でごめんな。球根を植えたら、野良猫に掘り返されてさ。縁側にプランター並べて植えなおしたんだよ。だからスタートが遅れて」 「ありがとう。毎年」 「同じ町内だからな」 「あはは、本当にその理由、おかしい」 「はは……」  短い沈黙。  肩の触れあっている部分が温かい。  外を車が通った音がした。  今なら訊ける。そんな気がした。 「翔陽、このチューリップ、花言葉、知っててプレゼントしてくれてる?」 「……」 「翔陽?」 「……さあな」  翔陽は勢いよく立ち上がると、昔のようにサッと玄関から出て、バタンッと大きい音を立てて、ドアを閉めた。  私は呆然と、玄関で花束を抱えて、立ち尽くした。  私がもっと気のきく大人だったら、先があまり明るくない仕事を諦めずに続けている男が、特別な相手に言えない気持ちもあるのだと、察することができたのに、と思う。  何年経っても、あのときの、翔陽の肩の体温を思い出す。  毎年、どんなに無理をしてでも四月三日は実家にいた私が、三十一歳の誕生日、初めて家にいられない状況になった。 「リナの誕生日に結婚披露パーティーやろうよ」  私はつきあってたった三ヶ月の男性と結婚を決めた。  就職した小さい会社で八年、私の上司だった男性で、意見が合わず喧嘩になったり、一緒に徹夜をしたりしてきた仲だった。  つきあおうか、という話になったとき、赤いチューリップの花束が脳裏に浮かんだ。  翔陽は二十五歳のとき、サッカーをやめた。街でひとつだけの大きなショッピングモールに中途採用されて、新しい人生を歩んでいる。  ずっと私の誕生日に赤いチューリップ三本の花束をプレゼントしてくれていたが、会話はほとんどなく、逃げるように帰っていく翔陽に、気持ちを訊くことも、伝える勇気もなかった。  だから私は上司とつきあうことで、ずるずるひきずった初恋に終止符を打った。  結婚式も披露宴も、今どき派手にやるカップルはいない。そんなことにコツコツ貯めた貯金を使いたくない。そういう価値観は当たり前になっているが、夫になる人は友人を呼ぶだけの小さなパーティーだけはやろう、と提案してきた。それを私の誕生日に、と。  夫になるその人の強い勧めを、私は断ることができなかった。  私は翔陽にもパーティーの招待状を送った。  だから二十回目の花束は、きっとこない。  パーティー当日は、せっかくだから、と真っ白のワンピースを身につけた。  ウェディングベールもブーケもなし。  お店を借りきって、夕方から小さいパーティーを開くことになった。  翔陽に出した招待状は、欠席に丸がついて返ってきた。 『お幸せに』  ハガキの隅に書いてある下手くそな文字を見て、胸がズキッと痛んだ。  小学生のときと変わらない下手さだな。  翔陽が書いた学級日誌を偶然見てしまったとき、先生に赤ペンで 『読める字を書こう』 と書かれていたのを思い出した。  初めてのプレゼントの日からずっと、翔陽を気にしていた。  顔を真っ赤にしてチューリップを突き出した翔陽。  いつも私を目で追っていた翔陽。  サッカーがうまくて、人気者で、キラキラしていた翔陽。  もし、私から好きだと告げていたら、今と違う未来はあったんだろうか。  控え室の鏡の前で、美容師さんに髪をアレンジしてもらいながら、ぼんやり思った。 「リナさん、ちょっといいですか?」  控え室の外から声をかけられて、扉を開けると、今日お世話になるレストランの店主の奥様が小さい花束を差し出した。 「男性の方がね、名前も言わないで、リナさんに渡してくださいって……パッと渡してすぐ帰っちゃって」  黄色いチューリップが三本だけの、小さい花束。 「あ……」 「誰かわかる?」 「はい、わかります。ありがとうございます」  店主の奥様は安心したような表情を見せて、扉を閉めた。  黄色のチューリップ。  花言葉は「叶わぬ恋」  翔陽……二十回目の誕生日プレゼント、ありがとう。  私は翔陽の気持ちをそっと受け取った。  私にとっても、叶わぬ恋だったんだ。 「あら、かわいいチューリップ!」  美容師さんはウキウキして 「せっかくかわいい生花をもらったんだから、これで髪を飾りましょうよ。きれいに編み込むから」 と言ってくれた。 「お願いします」  私は鏡の前に改めて座りなおし、自分を見つめた。  翔陽からもらった、初めての赤いチューリップを見て芽生えた気持ちを、ずっと心の片隅に置いておこう、と鏡の中の自分に誓った。
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