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「ここか……」
商店街を超えて、路地をひたすら進み、怪しい雰囲気のホテル街を通り過ぎて。私は、一軒の店の前に立っていた。
「しかし……すごいな」
店には、たくさんの商品が溢れかえっていた。それがとにかく多い。もの、もの、もの。それも、パッと見ただけでは何なのか、全く見当もつかないものばかり。それらが雑然と散らかっている。店の外にまで。周りの住宅から、苦情は来ないのだろうか。
「これなんか、何に使うんだ……?」
つい、ひとりごとを呟きながら、トレーシングペーパーほど薄い、札のような何かを手に取ろうとした、瞬間。
「不用意に触れない方が良い」
ザワ、と、耳の中を、一陣の風が通り過ぎた、ように感じた。実際に聞こえたのは、単なる低い男の声。しかし、どこから聞こえたのか分からない。声であるということすら、考えなければ分からない。ただ、私の耳はそれを「風」と認識した。
腰を曲げ、札を手に取る寸前の体勢で固まっていた私の視界に、動くものが入った。
「よぉ、契約を結びたいのか?そうでないならば「商品」には触れるなよ」
店構えにはあっているが、どうにも世間離れした和装、それを纏った長身の男が、店の奥の暗がりから歩いてきていた。男が近づくにつれ、その異様な背の高さが露わになり、驚く。私ですら、世間ではのっぽだと揶揄されるほどなのに。この男は、2m近いほどの長身だ。そして、男が口を開くたびに、やはり私の耳には風が吹く。
「あ……その……」
困惑して、声がうまく出ない。……待て、この私が?総合職から社長に見出され、秘書として抜擢された、エリート中のエリートの私が。たかだか、売れていなさそうな薬局の一店主であろう男ごときに、威圧されるだなんて。
「有り得ない、かな」
店主が、私の顔を見て、まるで私の内心を読んだかのような言葉を吐き、嘲笑するように笑った。嘲笑された。私は、それがなにより嫌いだというのに!
「っあなた、」
「好きに呼んで良い」
「別に呼びたいわけではありません!あなた、余りに失礼ではありませんか!?第一、店の商品に触れてはいけないのだと言うならば、書き置くべきでは」
「書いてあるさ」
店主は懐から扇子を取り出して、それで雑に看板を指した。つられて、目で追う。
「トワレット・ファーマシー お悩み無き方は手を触れないよう……」
私は声に出してそれを読んだ。ああ、確かに書いてある。それにしても、和洋折衷、と言えば聞こえは良いが、雰囲気といい、店主の格好といい、統一感がなくめちゃくちゃだ。眉を顰める。
店主は私が看板を読んだことに満足げに頷き、さっさと店の奥へ戻って行ってしまう。待て。まだ私には言い分があるぞ。
「なっ、悩みがあるなら!触れてもいいのですか」
店の奥に向かって叫び、私はようやく動き出した体をそちらに向かって進めた。暗がりに、一瞬慣れるまで目が眩む。やがて慣れた目は、店内の異様な光景を映し出す。
「悩みが有ると?客人だったのか、それは失敬」
店内は、外同様、ごちゃごちゃとものが散乱している。それは、良い。問題なのは店主だ。店主は、店内の奥に見える和室の中に居た。和室は店の一番奥、それもかなりの高さの位置にあり、小さい。まるでそれは神棚のようであった。
そして店主は、和室中央で、下半身を丸出しにして、便座に腰掛けていた。
「……は?」
「客人、悩みを聴こうか」
「……いや、あの、は?」
すっかり戦闘意欲を削がれてしまった私に、店主は、今まで通りの落ち着き払った重低音で言葉を返す。な、なぜそんなに、堂々としていられるのだ。今お前は、人目がある中で、トイレに、用を足す姿勢で、座っているのだぞ……?
そこまで考えて、私はぶるり、と身震いをした。……しまった。時間切れか。
「っ……とりあえず、出直します」
どのみちこんな訳の分からない変態の店で、悩みは相談できない。私は踵を返そうとした。
「あ」
店主が小さく呟く。思わず、視線をやる。男の座っている便器越しに、音が聞こえてきた。
ジョロロロロロロロ……ボチャボチャボチャボチャ……
店主が無表情のまま、座って放尿を始めた。
「っ」
あり得ない、あり得ない、あり得ない!私は堪らず、身を捩り、足を踏み鳴らした。だっ、だめだ、まだ、まだ耐えろ!
しばらく悶絶し、はー、はーと息を吐き、落ち着いた頃には、店主の放尿も終わっていた。……しばし、お互いに無言。やがて、店主が口を開いた。
「……忘れろ」
「ふざっ、い、いきなり人前で放尿しておいて、何なんだあんたは!」
「云うな」
「何を!」
「……だから」
店主が伏せていた顔を上げる。その顔は、真っ赤に染め上がっていた。
「放尿……だの、云うんじゃない」
「……はぁ?」
唖然としている私に向かって、店主は咳払いをした。
「客人、良いから悩みを云え」
何なんだ、こいつは?私の頭には疑問符が大量に浮かぶ。便器に、下半身丸出しで鎮座して、人の目の前で放尿しておいて。……恥ずかしがっている?全く意味が分からない。分からないが……しかし、その恥じらう表情が、店主に人間味を感じさせた。私はつい、口を開いていた。こいつになら……もしかしたら、分かってもらえるかもしれない。そんな、期待で。
「……実は、数日前から、家でしか、その……オシッコができなくて」
それが、私の悩みだった。そう、こんな馬鹿げた店、……トイレの悩み専門の薬局、なんてところをわざわざ必死に探し求めて来たのには、切実な理由があった。
「ほう」
店主が片眉を上げる。私は恥ずかしくなり、縮こまる。
「何も羞じらうことは無い。続け給え」
何が、続け給え、だ!今さっき放尿した癖に!……内心そうして店主を詰りながら、私は何とか言葉を紡いだ。
「会社で!困っているんです、その……我慢できなくて、…………してしまって……」
私はユデダコになった。それ以上はとても言えない。店主は変わらず、便器の上から私を見下ろす。
「着衣なら排泄出来たのか?」
「…………まぁ……そうですね……」
「ふぅん」
しばらく、また沈黙。私はもじもじと腰を揺らす。
「見た所、君は先程から催しているようだが」
店主の、デリカシーのない一言。私はまた、心の中で店主を、変態人前放尿野郎、と詰りながら口を開く。
「……いちど失敗……してから、すぐ催してしまうようになったんです。その……トイレのことを考えたら、もうダメで」
店主は、それを聞いてにやり、と口角を上げた。
「ほう。では、今も辛いかね」
「っうるさい、変態人前放尿野郎、便器椅子野郎」
「ふん、云っていろ。……口の減らない客人だが、まぁ、客人は客人だ。薬を調合してやらないことも無い」
店主が、す、と扇子で店内の一角を指した。
「そこの瓶を取り給え」
「……何で私が」
「煩い。早くし給え」
「触ったら、契約とやらになるんだろ。あんたが立てば良い話だろ」
「薬を調合する時点で契約成立だ。つべこべ云わずに取り給え」
「……分かったよ」
私は納得いかないままに、渋々小瓶を取り、便器の上で踏ん反り返る店主に手渡した。
「次は其所の葉だ」
「なぁ、何で立たないんだよ?」
私の当然の疑問に、店主はやはり答えない。
「まさかずっとそこにいないと漏らすわけでもないんだろ?」
「…………特異体質なのだ」
私が葉を手に取りながらしつこく問いかけると、店主は嫌そうに、それだけ答えた。
「特異体質?」
「安楽椅子探偵、を知っているかね」
「……椅子に座ったまま事件を解決する探偵だろう?」
「如何にも。私にも、その様な才が有ると云う迄」
店主は葉を受け取ると、また偉そうに胸を張る。
「……つまり、立ち上がれないくらい頻尿だから基本ここから出られないってこと?」
「無礼な!」
店主は私を睨みつけ、一喝する。また、初めて声を聞いたときのように、耳に風が吹いた。迫力はあるけれど、……正直もう怖くはない。
「何だ、同じような悩みを抱えてるんじゃないか」
私が笑うと、店主は乱雑に葉を瓶に千切って詰め、私にそいつを突き出した。
「減らず口は結構。此れを朝晩、一口ずつ飲み給え」
「……治るのか?」
「頻尿の改善はされよう。大体ひとつき程で完治」
「そっ、それじゃ遅いんだ」
今週は、社長が遠征する。私は運転を任される、社長の前で、もう二度と失態を演じるわけにはいかない……!
「……此れでも着けたらどうかね?」
店主が私に袋を手渡す。袋に書かれていたのは「こどもようおむつ」。
「バッ、馬鹿にするなぁ!」
私はおむつの袋を床に叩きつける。店主を睨みつけると、奴は意外なことに、笑っていなかった。
「問題は、何故そうなったか、だ。理由を突き止め、弱い心を炙り出さねば、また同じ過ちを繰り返すぞ」
……こうなった、理由。エリートの私に、そんなものはない。私は優れている、他人とは違う。弱い心などあるはずがないのだから。
「っもういい、薬のお代は!」
「君の職種は?」
「社長秘書!いいから、お代は!」
「ふむ」
店主が何か考え込むように目を閉じる。私は、いい加減我慢の限界だった。
「もう、漏れるっ、早くお代を!」
財布を取り出し、足踏みを繰り返す私に、店主は視線を向けた。
「俺は人の感情を薬の材料としている。……来週、社長への、君の気持ちを教えに来たまえ。お代はそれで良い」
「なにっ、どういう」
「金は不要だと云うことさ。考えておきなさい」
「……っ」
ダメだ、我慢できない。私は、店主に色々と言いたいことはあったが、それに蓋をして、回れ右をすると、店から走り出した。早く、早く家に帰らないと!……走り出す前に最後に見た店主の表情は、思えば妙に優しげだったような気がした。
*
家に着くなり、靴を脱ぎ捨てトイレに駆け込んだ。ドアの鍵がいつも開いていて不用心だ、と再三母には言い聞かせているのに、今日ばかりはそれに救われた。トイレのドアも閉めずに、放尿。……助かった。
「あらあら、あんた、なにやってんの」
後ろから母の声。ぎくりと肩を震わせる。
「父さんが見たらなんて言うか」
「っ……親父は死んだだろ、何も言えやしないよ」
「はいはい」
母が笑いながら、私の靴を直す。厳格だった父は、私の行儀作法にいつも説教をしてきた。それはもう、トラウマになるほどに毎日説教された。当時は家の中が大層怖かったものだ。
「……はは」
……親父は10年以上前に死んだけれど、今の私は、社長秘書。社長の為、いつも人目を気にしなくては、ならない。放尿を終えた私は、いつものようにネクタイを締め直す。さぁ、今晩は社長の出張をお送りしなければならない。気を引き締めなければ。いついかなるときでも。外にいるときは、私は、社長秘書なのだから。
*
車内。運転席。後部座席には、社長。そして今、渋滞した高速道路の上。
……出かける前には、トイレに籠ってオシッコを一滴残らず絞り出した。薬だって、きちんと飲んだ。だと言うのに、私の膀胱には、すでに大量のオシッコが溜まっている。
「……」
そわそわ、腰を浮かして座り直す。渋滞しているのを良いことに、そっと股間に手をやった。まだ、我慢できないほどじゃ、ない。しかし。
「混んでいるね」
「っ社長、起きていらしたんですか」
後ろからの突然の声に驚く。不味い、見られていなかっただろうか。
「はは、君はいつまで経ってもその畏まる癖が抜けないね」
「は、すみません……」
恐縮し、身を縮こめる。
「良いんだよ。時に、お手洗いは大丈夫かな」
お手洗い。ずくん、と下腹が疼いた。同時に、頭の中に、あの日の失態が駆け上がる。あの日。会議中に我慢ができなくなり、耐えに耐えて、会議が終わっても私だけ椅子から立ち上がることができなくなって。部屋に残っている私を不審に思った社長が近づいてきて。私は股間を握る手を思わず離した。…………。
「も、もう二度と、あのような失態は」
「いや、すまないね。気にすることじゃないんだよ。私は君の体を案じていてね」
「社長が!ご心配くださるようなっ、ことでは」
震える手をどうにか収めて、ハンドルを握る。頭の中では何故か、父の言葉がぐるぐる回る。身なりを正せ、正しく生きろ、人目を常に意識しろ。そうでなければ……。
「私は秘書ですので!失態は二度と犯しません。そうでなければ、生きている意味がありませんから」
少し語気を荒げて、私はそう言い切った。社長はやがて、ため息混じりに、そうかい、と言った。……私は何か、間違えたのだろうか?最年少で社長秘書に抜擢された、社長に目をかけられていた、お前はエリートだと持て囃された。期待は裏切れない。同期の、先輩後輩の、そして何より社長の期待を、私は背負って生きているのだから。私は、私は……。
きゅぅぅ、と下腹に複雑な痛みが走る。車内は暑がりな社長に合わせて、少し肌寒いくらいの温度。尿意はいつまで経っても、おさまるはずがない。唇を痛いくらいに噛みしめる。体がぶるぶると不自然に震えてきた。
「……私が君を秘書に選んだときに言った言葉を、覚えているかな」
社長が、また口を開いた。
「も、ちろんです。社長はこう仰いました、「君ほどきちんと生きている人間はなかなかいないね。私の仕事と人生を、君に少しだけ、任せてもいいかな?」と」
私を評価し、信頼してくださっての言葉だった。一言一句、覚えている。私はそのときから、社長のことが。
「あの言葉が、君を苦しめているんじゃないかと思ってね」
しかし社長は、そう言った。私にはそれは、死刑宣告に聞こえた。……お役御免。そんな言葉が頭をよぎる。
「君はもちろん立派な人間だけれど、少しだけ荷が重かったのでは、ないかな」
「わ、私は」
「あまり気にしなくていいんだよ。君は若い、失敗したって構わないし」
「私はっ、社長を裏切ることはしません!」
思わず叫んだ瞬間。腹圧が、強くかかった。
「っ、あ!」
急ブレーキ。後ろからのクラクション。一瞬、視界が真っ暗になった。下腹の違和感が、痛みが、限界を告げていた。
「あ、ぁ、ぁあ」
シュ、シュルルルルルッ、ジュォォォォォォッ
止まらなかった。水流が、勢いが。私はパニックになりながら、アクセルを踏んだ。視線を前に送り、きちんと運転を続ける。肌寒いにも関わらず、汗が頬を伝った。
足元が温かくなる。私の我慢しきれなかったそれは、恐らくは社長のもとまで伝って行ってしまっているだろう。私は何か弁解しようと口を開いたが、何も発することはできなかった。
あり得ない、あり得ない、あり得ない。頭に響くそれは失態を犯した私への、叱咤する父の口癖だった。
……気付いたら、私はうな垂れたままの姿勢でパーキングエリアに車を停めていた。社長が外から戻ってきたらしく、バタン、とドアが開く音がした。
「服を買ってきたよ。着替えなさい」
社長は、変わらず穏やかな口調だ。私は表情すら作れないまま、ぼんやりと手渡された衣類を受け取った。
「車は、私を送ったあとでクリーニングに出してくれたら構わない。経費で大丈夫だから」
「……社長」
「何かな」
「秘書を、退任します……」
「鹿目くん」
社長が私の名を呼んだ。
「確かに、君には秘書として私の仕事や人生を一部任せているけれど、だけど、君は周りや、私に頼ってもいいんだよ。それは矛盾したことじゃない」
「……」
「今は分からないかもしれないけど、覚えておきなさい」
これを聞いたとき、私はようやく気がついた。私は、社長を慕っている。これまでも、これからも。だけどそれは、社長を上の人間として、父の代わりにしている訳じゃない。社長のその懐の深さや、人柄、彼のそうしたものに惹かれていたんだ。父は関係ない。ただ、ひとりの人間として。
「はい……」
私は人前で涙を流した。それは恥ずべき行動だったけれど、社長はそれを、決して咎めなかった。
*
「……それで、それ以来外でも出来るようになったと?」
「はい!社長はやはり素晴らしい方です。私は生涯社長についていこうとあのとき決心して」
「それはもう良い」
店主はややげんなりしたように片手を振った。何だ、折角私がお代にと、社長への想いを語っているというのに。
「要するに、父からの呪いと、社長への必死な想いが合わさって、君をがんじがらめに縛り付けていたと。大体そう云った所か」
私は少しむっとした。
「そんなに簡単な言葉で片付けないでいただきたい」
「ああ、まあ、大体で良い。君の言葉をたんと薬には聴かせたからね」
「薬に聴かせる?」
「この瓶の中身さ。此れは只のアルコールだったが、君の言葉を聴いて、薬に変わったのさ」
「……はぁ」
私は首を傾げる。胡散臭いが、まあ、確かにこいつの調合した薬のおかげか、頻尿も良くなってきてはいる。
「では、お代も十分だ。帰って良いよ」
店主が面倒臭がるようにひらひらとまた片手を振った。しかし、私にはまだ、言いたいことがあった。
「……いや、お礼がしたいんだ」
「お代は十分だと」
「代金じゃなくて。あんたのおかげで、自分の弱さときちんと向き合えたんだ。人間として、礼がしたいな」
「……」
「出会えたのも何かの縁だ。そうだ、あんた頻尿で店から出られないんだろ。私が材料を集めて来ようか」
すると、黙っていた店主の瞳が、ぎらりと妖しく光った。
「云ったな?」
「え」
「契約成立。君から云いだしたことだ、文句は受け付けんよ」
店主が立ち上がり、服を直すと、私の前に降りて来て、私の手を荒々しく掴んだ。
「助手君。此れから宜しく頼むよ」
店主が私の目を真っ直ぐに見つめながら、にこにこと笑っている。……これは、もしかして。
「嵌められた……?」
「はは、何を云うか。君の提案じゃないか」
店主は笑顔を崩さない。……社長、私は過ちを犯したのでしょうか。握られたままの手を見つめながら、私は頭の中で苦笑いを浮かべている社長に泣きついた、のだった。
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