第十二章

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第十二章

 その日が決まったと連絡がきた。  保育園の補助金について役所との面談の日だ。俺はアパートの用事が済んだらすぐに行くと清川さんに連絡した。金井の話が本当なら、内部に若生側の人間がいるってことだ。危険かもしれないが、俺は同行させてくれと頼むつもりだ。  あれから橋下さんからは予想外に何度か連絡がきていた。意外とマメな人なんだろうか。どうやら両方の取引日時と場所を掴んだらしい。同じ横浜にいるっていうのに、この情報の差はなんなんだろうな。清川さんは報告する度に「凄えな、さすが龍神会」って言って拝む勢いだった。そのうち〈橋下様〉とか言いだすんじゃないだろうか。  時折道ばたで多美子さんに会った。なんだかすごくイキイキしていて、心なしかお洒落になった気がする。八重さんのことも聞いてみた。例の保育士募集は無くなっていたそうだ。それで八重さんはそこに行こうとしていた人たちに声をかけて引っ張って来たらしい。八重さんもかなり積極的に動いている。どうやら保育所関係のほうは問題なく動いているようだ。  清川さんの家の前に着くと中から大きな笑い声が聞こえた。いつものように譲葉が迎えてくれたけど、玄関には男性用のピカピカに磨かれた靴があった。 「こんばんわ」俺が中に入っていくと「おう」と返ってきた。そこには黒岩さんのお兄さんがいた。 「今日は昼間じゃないんですね」 「ああ、話がしたかったからな」それはってことなんだろうな。 「役所との面談に同行したいんだって?」やはりその話か。「まあ、座れや」  清川さんとお兄さんと俺とでテーブルを囲むように座った。譲葉はすぐに〈焼酎の香りのする梅干し入りのお湯〉を持ってきた。 「キヨから詳しい話は聞いた。それで木崎さんも行くって?」お兄さんはすぐにその話をした。 「はい。恐らく若生側の人間がいるはずなんです」 「その面談に来るかどうかは分からないんだろ?」 「それは分かりません。でももしその場にいなくてもせっかく役所の中に入れるわけですから、迷ったふりでもして誰かに聞いてみようかと」  そう答えるとお兄さんは目を丸くして、清川さんは笑い出した。 「な? こう見えて大胆だろ?」そう言って清川さんはお兄さんの背中を叩いた。 「まあな。まさか探し出そうとするとは思わなかったわ。なるほどな」 「石川が若生の何を阻止したかったのかまでは、はっきりとは分からないんです。もしかしたら何か手がかりがあるかもしれないって」 「石川が保育園の補助金ビジネスを止めようとしてたとは思えねえけどなあ」清川さんはそう言って首を捻った。 「そういえば石川に弟がいるって知ってました?」 「あ? 弟?」清川さんはそう言って考え込み始めた。弟、弟と呟いていた。そしてしばらくすると「あ」と言った。 「確か石川の弟ってまだ小さい時に亡くなってるはずだ。確か──餓死って」 「餓死?」今どきそんなことってあるのか? 「木崎は知らねえか。石川の育った家庭はなんつーかほったらかしな家でよ」 「ああ、親父から少し聞きました」俺がそう答えると清川さんは頷いた。 「食いもんも自分で見つけて来ないと食えねえってことが頻繁にあったらしいのよ。石川も結構頑張って食いもん見つけてきたらしいんだけど、弟ってのが身体が弱くてな。結局食えなくなって。いま考えればどこか具合悪かったんじゃねえかなって思うんだけど」 「それっていつのことですか?」 「詳しい時期は知らねえけど、石川が中学にあがる前だったんじゃねえかな。中学入ってからは相当ヤバいことやって、カネは稼げてたみたいだから」 「弟は幾つで亡くなったんですか?」 「小学生くらいだったんじゃねえかな。学校に行ってないとか言ってた気がするから」 なるほど。だが保育園の時期とは微妙に重ならないな。 「──ああ、そういえば『弟みたいな奴がいて』って言ってたな。なんか可愛がってるみたいなことは言ってたぞ」  それはたぶん漆原さんの息子さんのことだ。弟分とはいえ同い年って言ってたもんな。ちょっと違うか。そういえば息子さんには子どもがいるって言ってたな。もしかしたらその子どもが保育園くらいの年齢か? だが根岸って言ってたな。西区ではないよな。 「木崎?」 「ああ、すみません。やっぱりよく分からないです。とりあえずその野郎を探してみるくらいしか」 「まあ、何かの突破口にはなるかもしれねえからな。そいつが何か知ってるかもしれない」お兄さんはそう言って頷いた。「だったら木崎さんも同行してみるか」 「はい!」俺は思わず大きな声を出した。お兄さんは「じゃあ作戦でも立てるか」と身を乗り出した。
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