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第一章
父親は俺が小学四年の時に死んだ。自殺だった。東京の町工場の集まる場所で、腕のいい板金工場として経営は順調だった。だが運悪く連帯保証人になった。ちゃんとしたところから借りてるから大丈夫、そう言っていたはずなのに。債権はどう考えても普通じゃないところに流れていた。いや、そもそもちゃんとしてなかったのかもしれない。子どもの俺には分からないことだった。取り立てが毎日やって来た。暴力は受けてない。けれど物は壊されたし、怒鳴り散らされた。仕事はなくなり、経営も傾いた。父は結果として死ぬしかなかったんだ。借金は保険金と家と工場を売り払ったカネで返済された。
母と俺は築何年か分からないドアがまともに閉まらないようなアパートに引っ越した。しばらくは静かに暮らしていたが、そのうちまた何故か取り立ての男達がやって来るようになった。どうやらカネが無くなった母に生活費が必要でしょうと甘い言葉を囁いて、再びカネを貸しつけたらしい。風呂にも入れないまま電気を消して時間が来るまで居ないふりをした。
そのうち男が一人家の中に入り込んできた。借金取りのうちの一人だった。挨拶には五月蝿い男だったが、俺は一度言われたきりでそれ以上言われなかった。父が挨拶は大事だと教えていてくれたからだ。おかげで八つ当たりをされずに済んだ。アパートは小さな台所と六畳の部屋だ。そこは一応襖で仕切られていた。ある夜トイレに起きるといつもは開いてるはずの襖が閉まっていた。隣に母も居なかった。襖を細く開けてみると、台所のシンクの前で二人が身を重ねていた。
「あの子が、起きちゃうから」そう息も絶え絶えに母が言った。言葉とは裏腹に汗ばみながら幸せそうな顔をしていた。厳つい男に伸ばされた手は男の背中にきつく絡んでいた。
それからすぐに母は十万円と『この子をよろしくお願いします』というメモを残して消えた。メモには名前と電話番号が書いてあった。俺は隣に住む親切な爺さんに電話を借りてそこにかけた。そしてすぐに来てくれた。父の弟だった。奥さんと一緒にやって来た叔父はメモを見て困惑していた。だから俺は正座して三つ指をついて「よろしくお願いします」と頭を下げた。挨拶は大事だ。
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