小さな頃から

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「だってそろそろ考えねえと」  呆れたような、少し苛々しているような、そんな声が耳に飛び込んできた。  午後、昼と夕方の間の曖昧な時間。眩さの中に黄昏の気配をも漂わせた日差しが、カフェの広い窓から差し込んでいる。  学生だろうか、二人の若い男が向かい合ってコーヒーを飲んでいる。 「そうは言ってもなあ」  髪の茶色いほうが言う。 「何がしたいかもわかんねえのにさ、就活って言っても」 「なんかあるだろ。学部は選んだんだし」  と、少し長めの黒髪のほうが返す。 「そんなの得意科目で選んだだけだよ。研究テーマも教官に言われて決めたし」 「お前には主体性ってもんはないのか」 「あったらこんな話になってないって」 「……それもそうか」  黒髪はため息をついた。  茶髪はそんな様子を眺めた後で、ふと口を開く。 「お前の方はどうなんだよ」 「俺? 俺は出版社狙いだな」 「出版社?」 「うん。できれば漫画関係。雑誌の編集とか?」 「なにそれ。経済学部出てなんで漫画雑誌なの」 「うーん……夢、だったんだよね」 「夢? 編集者が?」 「いや、元々は漫画家になりたかったんだけどさ」 「へえ。初耳」 「うん。実際に描いたことはほとんどないからね」 「漫画描きたかったんじゃないの?」 「それが、どうやら違うんだよな。俺は漫画を描きたかったんじゃなくて、漫画家になりたかったの」 「?」  きょとんとする茶髪に、黒髪は笑う。 「そうだよな、わかんねえよな。俺にもよくわかんなかったんだけどさ、どう考えても描きたいもの……そもそも描きたいっていう欲求そのものがないんだよ。それでも漫画を世に届けたいんだとすると、俺が目指すべきなのは、むしろ編集者なのかなって」 「はー……なるほどねえ。お前、ほんとにちゃんと考えてんのな」 「だからさ、お前にもねえのかよ、小さい頃の夢とか」 「いや、そんなの……あ」 「なに? なんか思い出した?」 「パン屋さん」 「パン屋?」 「うん。近所に個人経営のパン屋があってさ、そこのおっちゃんがすげえ優しくて、パンも好きだったから、パン屋になりてえなあって」 「あるじゃん、夢」 「あー。うん、そうか。そうだな」  茶髪は腕を組んでしばらく考え込む。 「うん、俺もちょっと考えてみるわ。パン作り勉強するのか、パン作ってる会社目指すのか、それとも他にもなんかあるかもしんないけど」 「いいんじゃね?」 「おう。ありがとうな」  照れたように言う茶髪。 「いや、別に、ただ話の流れだから」  そこまで聞いた時、テーブルの上でスマホが振動し、画面を確認した俺はレジへと向かった。  ……まったく。  誰に言うともなく内心でつぶやく。  わかっちゃいない。全くわかっちゃいない。子供の頃なりたかったものを目指す、なんて。  子供の考えは単純だ。ある仕事につきたい、と言ったとしても、本当にそれがしたいことなど稀だ。なぜなら子供は、その仕事の実態など何一つわかっていないからだ。  現実はいつだって世知辛い。クライアントのわがまま。理不尽な上司。予算の限界と、上げるべき成果のせめぎ合い。システムの不具合。襲いかかる不慮のできごと。  おそらくは業種により具体像がさまざまな、そういった事柄の一つ一つを検討し、それでもなりたいかどうか、考えるのが大人の判断ってものだ。  何もわかってない子供ころの夢を基準にするなんて、まともとは言えない。  そうとも、子供の頃の夢なんて実現するもんじゃない。 「なになに?」  店を出て、バイクに跨りながら、眼底スクリーンに映し出された情報を確認する。 「旭町でスクールバスのジャック? そりゃまたえらく古典的な」  つぶやいてエンジンをふかす。 「非番中に呼び出された鬱憤は、晴らさせてもらうからな……変身」  子供の頃夢見たままの姿に変身して、俺は悪の組織に立ち向かうため、バイクを走らせる。
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