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雨音は嫌い。
そもそも雨が嫌い。
地下鉄駅の構内から出たあたしは、予報通りに降り始めた雨にため息をつきながら、バッグから小さな折り畳み傘を取り出した。
ああ、いやだ。
傘にパラパラと当たる音。
この音は、どうしようもなく、あの時のことを、思い出させるのだ。
宏美は同学年の女子だった。三年間、クラスも一緒。
「さっき来てたの、誰?」
まだ誰とも打ち解け切ってはいない、四月のある日。宏美はお弁当箱を広げながら、あたしに聞いた。
「さっきの? ……ああ、うん、中学の時の、先輩」
「部活? なんの?」
「合唱部。て言っても、あたしは部員じゃなかったんだけどね」
「えっ? どういうこと?」
「伴奏やってたのよ。専属みたいな感じで」
「あ、鹿野さんもピアノ弾くの?」
「え、中原さんも!?」
「うん。あたしは伴奏はやったことないけど。先生に止められてて」
「あー、うちの先生もあんまりいい顔はしないけどね」
「うちは絶対ダメって。やるなら他の先生につきなさいって」
「伴奏と独奏じゃ全然違うっていうのはしょっちゅう言われるよ」
「うん、だからダメって言われてるんだけどね。でも伴奏でもやんないと、部活に関わる隙ないんだよなあ。運動部とかキツいとこじゃ、レッスンと両立できる気がしないし」
「いやまあ、大変だよ、部活ってのも」
「うん、まあそうなんだろうけどさ、ちょっと、憧れるんだよね」
そんな話をきっかけに、あたしたちは仲を深めていった。とはいえ、選択制の芸術の授業ではあたしだけが音楽。宏美は美術。だから、あたしたちが音楽室で顔を合わせることはほとんどなく、好きな曲のことや、どの曲のどこそこが難しいと言う話、レッスンに関する愚痴などを言い合いながら、私は二年以上一度も、宏美の演奏を聞くことがなかった。宏美の方は、伴奏とはいえ、合唱部の発表などの折に、あたしのピアノを聞く機会があったはずだけど。
三年の六月、合唱部の練習があると思って音楽室に行ったら、今日は顧問の都合で休みだと告げられた。では帰るかと向かった昇降口で宏美と会い、一緒に帰ろうとなったところで、音楽室に忘れ物をしたことに気がついた。宏美に言うと、じゃあ付き合うよと、いっしょについてきてくれた。
特別教室の並ぶ別棟への閑散とした通路を抜けて、一番奥の音楽室へ。
「あ、あったあった!」
机の上に置いた手提げを拾い上げてさあ行こうと振り返ると、宏美がグランドピアノの端に手をかけてぼんやり窓の外を眺めていた。一瞬、どきりとする。初めて見た、ピアノと共にいる宏美。雨の気配を漂わせ始めた薄暗い窓の外と、室内を満たす白々しい光。
全てが、繊細な絵画のようで。
「ね、」
あたしは口を開いた。
「こんなこと滅多にないしさ。弾いてよ」
宏美はちょっと驚いたようにこちらを見る。
「え、今? 勝手に弾いていいのかな」
「いいじゃんいいじゃん。ちょっとだけ」
「うーん……」
渋る様子を見せながらも、手は布のカバーを慣れた手つきで持ち上げ始めている。そんな動きまでもが妙に様になっていた。屋根は閉めたまま、鍵盤蓋だけを開けて赤いフエルトを丁寧に畳み、椅子を調整して座る。あたしは思わず生唾を飲み込んだ。その音が聴かれはしなかったか、ヒヤリとする。宏美は一瞬だけ目を瞑り、またひらくと、おもむろに鍵盤に指を下ろした。そして。
わずか二音から始まりゆっくりと奏でられる音楽。知っている曲だ。
ショパンの、雨だれ前奏曲。
あたしも弾いたことがある。黒鍵が多いことを除けば物凄く難しい曲というわけでもない。
だが。
この音はどうだ。ともすれば単調になりがちな左手は、静かに降り始めた雨そのもの。下降し、またゆっくり上昇する右手の優しさ、仄かな哀愁。
タッチも、リズムの微細な揺らぎも、全てがあまりに美しい。
転調を迎え雨音が右手に移ってからの、低音の陰鬱な響き、行きどころのないまま高まる暗い熱情、そして回帰する冒頭。
雨音が最後の和音に溶け、長い余韻を残して消えていったとき、私は思わず深いため息を漏らしていた。
そのあと、どんな会話をして、どうやって帰ったのだったか。
ただ、賛嘆と、憧憬と、感動の中に、小さな、けれども確かな、胸を刺す痛みがあったことだけは、覚えている。
それはずっとあたしの中に残り続けた。進路から音楽関係の選択肢を消し去ったのも、高校を卒業してからすっかりピアノを弾かなくなってしまったのも、そのせいだった。
そして今、降りしきる雨が、あの時の痛みを、私の中に蘇らせようとしている。
「この先……二つ目を、右か」
スマホで道を確認し、小さくつぶやく。
狭い路地だが車通りが意外に多い。滅多に着ないフォーマルに泥跳ねしないか、気になってしまう。ただでさえ慣れないヒールが歩きづらいのに。
その上雨が激しさを増してきた。傘が大きな音を立てる。
そういえば、あの曲の激しい箇所って……
そう思い出した時、目的地が見えてきた。
不自然に清潔感のある建物。筆文字の看板。
そうだ、あたしは思う。
あの曲の半ばあたり、ちょっと、葬送行進曲みたいだなって、いっつも思ってたっけ。
なんて、タイムリーな雨。
宏美の葬儀の日に、降るなんて。
「あ、真希ちゃん?」
中に入ったところで声をかけられた。見ると、かすかに見覚えのある顔が自信なさげにこちらを見ている。
「えっと、佐恵子?」
「やっぱり真希ちゃんだ」
高校の同級生だ。あたりを見回すが他にそれらしい姿はない。
「他には?誰も来てないの?」
「まあ、卒業してもう七年だし。近くにいるとは限んないしね」
「そっか。そうだよね」
「佐恵子はどっから連絡受けたの?」
「大学関係」
「え? 宏美って音大じゃなかったっけ」
「あーうん。実はあたしもさ、私立蹴って、一浪して音大行ったのよ。だから宏美の後輩。ピアノじゃなく声楽だけどね」
「ああ」
そういえば、佐恵子、歌うまかったっけ。時々合唱部の顧問と話し込んでたのはそのことだったのか。
「そうなんだ」
「うん。でも宏美、最初私のこと全然気が付かなくってさ……」
佐恵子の言葉が、大学での宏美の姿を浮かび上がらせる。あたしが知らない姿を。
宏美の弾く雨だれを聞いたあの日のあとも、あたしたちは相変わらず仲良くしていた。けれども、もう二度と、宏美のピアノが聞きたいと、あたしが言うことはなかった。
怖かったのだ。打ちひしがれるのが。
そりゃあたしは音大目指してたわけでもなんでもないし、将来ピアノでやっていこうなんて思ってもいなかった。けれども。
それでも、そんな半端なあたしにだって、絶望はあるのだ。
目指していないからこの程度なのだ、そんな逃げ道を塞ぐ、圧倒的な才能。
たとえ本気で取り組んだって、届かない場所がある、と言う現実。
それを目の前でまざまざと見せつけられて、あたしは自分がやっていることのあまりの無意味さに言葉を失った。
だから、卒業と同時に、ピアノをやめたのだ。
そしてあたしは、宏美との連絡をたった。宏美が嫌だったのではない。ただ、忘れたかった。自分がかつてピアノを弾いていたと言う事実、そのものを。
なのに、そんなにも才能のあった宏美が、若くして亡くなってしまうなんて。
悲しかった。ちゃんと会っておけばよかったという後悔もあった。
だがそれ以上に、あたしは……自分がなんのためにピアノをやめたのか、という、悔しさとも怒りともつかぬ思いに、苛まれていた。
お焼香を終え、案内された別室で一息つきながら、ぼんやりそんなことを考えていると、佐恵子が不意に隣に来て、言った。
「それにしても、よかったよ。真希ちゃんが来て」
「え、なんで?」
「だって、宏美、ずっと気にしてたからさ」
ちくり、と胸が痛む。いきなり連絡が取れなくなって、傷つけたのかも知れない。
しかし、続く言葉は予想もしないものだった。
「宏美、いっつも言ってたんだよ。真希ちゃんみたいに楽しそうにピアノ弾く人、他に見たことない、どんなに練習してもそれだけは叶わないって」
「えっ……」
「真希ちゃんが弾いてるとこ見たら、自分がやってるのが価値あることだと思えるって、よく言ってた。ねえ、弾いてるんでしょ? 今度あたしにも聞かせてよ」
「あたし……あたしは……」
言葉を探しながら。
その日初めての、涙が溢れた。
雨だれのように、雫はあたしの膝の上に落ち、消えていった。
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