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チーターは、アフリカのサバンナに生息する大型獣の中では、やや特異な存在だ。
地上最速の称号を掲げ、加えて「狩猟豹」という和名の示すとおり狩りの名手でもあるが、その傑出した力量にもかかわらず、草原の生態系の中における地位はさほど高いものではない。
時速100kmを超すと言われる瞬足は、実は身の軽さに依るところが大きく、他の獣との闘いとなった際には、その軽量ゆえの非力が仇となってしまうのだ。
ライオンや豹、ハイエナなど競合する肉食獣はもとより、ヌーやシマウマといった草食獣でさえ、彼らにとっては正面から立ち向うことのかなわぬ難敵だ。
加えて性格も比較的温厚で、人間にも懐く家猫なみの社交性も備えている。
俊敏さを求めた結果、力を捨てることになったのか。あるいは力による争いを嫌って、独自の道を歩むことを選んだのか。
いずれにしても、しぜん狙うべき獲物は幼獣や老いた獣などより非力な者が中心となり、時に野兎などの小動物を襲うこともある。
だがごく稀ではあるが、自分より大きな獣を仕留めることも、全くない訳ではない。
結局のところ、狩りの成否は力と運とタイミングによって決まるのだ。
―――*―――*―――*―――
その日、片耳のちぎれた若い雄のチーターは、久しぶりに大物を仕留めて大満足していた。
倒したのは、成熟したメスのガゼル。
しかもふだん狩りの対象としているトムソンガゼルとは違う、グラントガゼルと呼ばれる大型種だ。
通常であればこんな大きな獲物を狙ったりはしないのだが、片耳のチーターがトムソンの群れに突撃して行った時、中に交じっていたこの個体だけが別の方向へと駆け出して、彼の目に留まってしまったのだ。
もしかしたら、脚を痛めていたのかも知れない。
妙にぎこちない走りで群れから離れたガゼルに片耳は易々と追いつき、臀部に飛び付いて引きずり倒した。
彼女は、一度は倒れたものの、すぐさま立ち上がろうとした。
だが片耳は素早く喉元に喰らいついてそれを阻止し、同時に顔と肩口に爪を立てて抑え込み、そのまま絶息するまで牙を緩めなかった。
初めのうちは体をよじり脚を掻いて必死に逃れようとしていたガゼルだったが、次第にその動きは小さくなり、やがて静かになった。
片耳はしばらくそうした後、ゆっくりと牙を抜き、まだかすかに痙攣をみせる四肢を横目に見ながら、大きく張った腹部にかぶりついた。
柔らかい腹の肉を食い破ると、鮮血と共に真っ白い液体がほとばしり、片耳の体を濡らした。
片耳はその液体が放つ予想もしなかった甘い匂いにとまどい、牙を引いて口の周りをなめ回した。
おそらくその雌は子持ちだったのだろう。
白い液体の正体は、母乳だった。
鮮血の塩気とは異なる甘味と、そして鼻の奥をくすぐる不思議に懐かしい香気。
だが空腹に支配されていた片耳は、それが何だったかを思い出すよりも早く、ふたたび獲物にかぶりつき腹の中に頭を突っ込むようにして内臓をむさぼった。
数日ぶりの獲物、しかもこんな極上の肉にありつけるなんて思いもよらなかった。
片耳は夢中になって肉を食み、温かな血と甘い乳をすすった。
やがて、充分に腹を満たした片耳は、ゆっくりとその場を後にした。
もっと小さな獲物であれば、食べ残した肉も他の肉食獣に横取りされないよう、木の上に引きずり上げておくところだ。だがさすがに自分よりも大きなこの巨体を運ぶのは、容易ではない。
かと言って、この場に留まって見張っていたとしても、ハイエナなどに狙われたらとても抗い切れるものではない。
奴らのしつこさ、ずる賢さはよく知っている。なにしろ彼が左の耳朶を失ったのも、あの連中と獲物を争った結果なのだから。
惜しいが、ここに放置する他はなかった。
ともあれ、今は満腹だ。
この幸福感をより確かなものとするために、彼は近くの藪へと脚を向けた。
外敵の目に止まらぬ草むらの中で、暫し眠りに就こうと考えたのだ。
高く伸びた野草の隙間に分け入り、葉先で目を傷つけぬよう顔を伏せ額で掻き分けながら、奥へと進む。
その先に、どうにか落ち着けそうな空間を見つけた片耳は、軽くあくびをしながら中に進もうとして、思わず足を止めた。
その時の彼が、油断していたのは間違いない。
そうでなければ、いかに見通しの悪い藪の中とはいえ先客の気配に気付かぬはずがなかった。
その者と出会い頭に顔を突き合わせてしまった片耳は、反射的に身を伏せ、後ろに跳び退ろうとした。
が、その正体を知るとすぐに警戒を解き、緊張で固くした尻尾を降ろした。
そこにうずくまっていたのは、生後間もないと思われる小さなガゼルの仔だったのだ。
片耳は暫しの間、仔ガゼルと見つめ合った。
野生界において、相手の眼を正面から見つめるという行為は敵対を意味する。
だがその時の片耳は、目の前の存在に対して完全に無心であった。
もしもその時、仔ガゼルが少しでも怯えを見せていたら、片耳は本能の赴くまま瞬時に襲いかかっていたことだろう。
だが仔ガゼルはそんなそぶりは微塵も見せず、丸い大きな瞳で片耳の顔をじっと見つめ返した。
そしてヒョイと立ち上がると、物怖じする様子もなく近づいて来て、片耳の顔の周りをペロペロと舐め始めたのだ。
片耳は予想外の事態にしばし戸惑い、身じろぎもせずされるがままに立ち尽くした。
乳飲み仔を持つガゼルの母親は、自分の仔を藪の中に隠して単独で食事に出かけることがある。
このガゼルも、そういった幼子のひとりだったのだろう。
片耳が倒した雌ガゼルがこの仔の母親だったのか、それとも単なる偶然の出会いだったのか、それは定かではない。
あるいは仔ガゼルは、片耳の体を濡らしていた乳の匂いに誘われただけなのかも知れない。
だが、そんな相手の事情を知るべくもない彼は、この小さな獣にどう対処すべきか思考をめぐらそうとして、すぐに考えるのをやめた。
こいつはなぜ逃げようとしないのか。そもそも、なぜガゼルの仔がこんな所に独りでいるのか。
片耳には理解できず、また理解するつもりもなかった。
自分に害をなすものでないなら、どうでもいい。とにかく彼は一刻も早く眠りたかったのだ。
片耳はそのまま藪の中の空間に歩を進め、草地の上に身を伏せると、傍に立つ小さき者を気にかけることもなく、静かに目を閉じた。
―――*―――*―――*―――
まどろみの中で、夢を見た。
あれはいったい、いつのことだっただろう。
温かくて……。
柔らかくて……。
とてもいい匂いがする……。
何の不安もなく。限りない安らぎの中で時を過ごしていた……。
あの幸せな時間を、いつの間に失ってしまったのだろう……。
―――*―――*―――*―――
そう長い時間ではなかったはずだ。
片耳が目を覚ました時、まだ夢の続きのような温もりが彼の傍にあった。
頭を上げると、間近に仔ガゼルの顔があった。
仔ガゼルは、片耳の脚の間に潜り込むようにして体を丸め、腹の上に頭を乗せて寝息を立てている。
だが片耳のわずかな身じろぎですぐに目を醒まし、勢いよく立ち上がると嬉しそうに鼻先を寄せてきた。
片耳はそれを気にする素振りも見せず、身を起こすと、あくびをしながら大きく伸びをしてからその場に座り込んだ。
仔ガゼルは正面に立って、片耳をじっと見ている。小さな尾をプルプルと振るその様子からは、警戒心らしきものは欠片も見られなかった。
片耳が身をかがめて鼻面を近づけると、仔ガゼルも嬉しそうに鼻先をこすり付け、それからまた顔をペロペロと舐め始めた。
片耳はわずかな間だけその挨拶を受けると、再びあくびをしながら立ち上がった。
向かって来る者は敵。逃げる者は獲物。そのどちらでもない者は、自分には無関係だ。
再び草原に向かおうと後ろを向いた次の瞬間には、その小さな存在に対する興味を失っていた。
そして仔ガゼルも、藪を出ていく彼の後を追ってこようとはしなかった。
それから陽が傾く頃まで、片耳は特に目的もなく、己が縄張りと決めた草原の中をさまよい歩いた。
チーターは、ネコ科の動物には珍しく昼行性だ。
特定の巣を持つ習性はないが、お気に入りの場所をねぐらと定め、夜はのんびりと休むのが常だ。
片耳が何の気なしに昼間の藪に戻った時には、彼の脳裏からは小さな獣のことなどすっかり消え去っていた。
だから、獣道をくぐり抜け奥の間にたどり着いた途端に、何者かの影が飛びついて来た時、片耳は驚いて跳び退いてしまいそうになった。
だがその影は彼に襲いかかるのではなく、嬉しそう鼻面を押し付けペロペロと顔を舐め始めた。
なんだこいつか、とその時になってやっと思い出し、拍子抜けしてついその顔をペロリと舐め返してしまった。
その時、不思議と安らいだ気持ちになったのを、片耳は少しだけ奇妙に感じていた。
―――*―――*―――*―――
翌日、片耳は狩りをするために再び草原へと向かった。
チーターは、和名に狩猟豹と名付けられるほどの狩りの名手だ。
成功率は、約50%。これは野生界においては驚異的な数字だ。
ライオンなどは、せいぜい2・30%程度で、しかもこちらは集団で事に当たるのに対し、チーターは単独での成果だ。
用いる武器は、俊敏さのみ。
その一点に特化するために、あるいは特化したために、体型も独特のものとなっている。
体格に比して頭部は小さめで、牙も小ぶり、顎の力もさほど強くはない。
だが大地を掻く爪は大きく強靭で、指間に収納することもできないほど。大きくくびれた腹部は、身体全体のバネを生かすため。
そして不釣合いなほど太く長い尾が、急激な方向転換を可能にする舵の役目を果たす。
余計な重量を排し、スピードとコーナーリング性能を極限まで追求したレイアウトは、レーシングカーに通じるものがあった。
その日の狩りは、首尾よくインパラの仔をしとめることができた。
インパラの仔とガゼルの仔。その二者に何の違いがあるのかなど、片耳は考えもしない。
インパラは自分がそうと狙ったから獲物なのであり、ガゼルの仔はその気にならないから獲物ではない。ただそれだけだ。
片耳は、無心に肉を食み充分に腹を満たすと、上機嫌でまたあの藪へと向かった。
草生えの奥の空き地に、仔ガゼルは待っていた。
片耳は軽く挨拶を交わしたあと、胃の中に納めた肉を吐き出した。
おすそ分けとでも言うべきだろうか、幼子に新鮮な食事を与えるつもりだったのだ。
だが仔ガゼルは、赤い肉に鼻を近づけると、ペロリとひと舐めしただけで後ろに下がった。
片耳は訝しんだ。
腹が減っているだろうに、こんなに美味い肉にどうして食らいつこうとしないのだろう。
片耳は、肉塊を鼻先で仔ガゼルの方に押しやり、早く食えと促す。
それでも仔ガゼルはそちらには興味を示さず、わずかに、肉と共に吐き出された胃液で濡れた草をペロペロと舐めただけだった。
次の日の獲物は、野兎だった。
片耳はその肉をその場で食べずに、藪に持ち帰った。この新鮮な肉ならあいつも喜んで食べるだろう、と。
だがまたしても仔ガゼルは獲物に向かうことなく、空き地の隅にうずくまったまま、草の茎を弄ぶようにやわやわと食むのみ。
片耳が近寄ると、立ち上がって顔を舐めてくる。だがその仕草は、心なしか元気がないように感じられた。
それから二・三日の間、狩りは不調だった。
毎度うまくいくとは限らないのは判っているが、いつにない苛立ちと焦りに集中力を削がれたか、草かげから飛び出す前に気付かれて逃げられてしまうことが度々あった。
草原を疾走することもなく狩りを諦めるのは、さらなる鬱憤をもたらす。
そのまま夕刻となり、ふてくされた様子で藪に戻った片耳を、仔ガゼルが嬉しそうに出迎えた。
ほっとすると同時に、前日よりもさらに力ない様子に片耳は不安を募らせる。
かといって特に出来ることも思いつかず、二頭は今日も体を寄せ合って眠りにつくのだった。
―――*―――*―――*―――
その翌朝。片耳は思い立って、少し遠出をすることにした。
彼が藪を出ようとすると、仔ガゼルはいつものようにその場に留まって、片耳を見送ろうとする。
片耳は後ろを振り返り、ついて来いと言わんばかりに数度にわたって頭を下げ、仔ガゼルを誘った。
その意図を察した仔ガゼルが寄って来る。片耳はそれを認めると、ゆっくりと歩き出した。
生い茂った草の間を抜け、草原へと脚を踏み出す。
片耳は急ぐでもなく、落ち着いた足取りで大地を踏みしめた。若干の緊張を伴いつつ。
その後に、仔ガゼルが跳ねるような足取りで続く。仔ガゼルは、前を進む長く太い尾をまるで親を慕うかのように懸命に追った。
野生のガゼルが、生まれてから最初の1年を生き延びる確率は、半分以下だ。
死に至る理由は様々だが、母親を失うことももちろんその一つ。親の保護なく乳飲み子が生き延びるには、サバンナの自然は厳しすぎる。
今も、照りつける陽光は二頭の獣の上に容赦なく降り注ぎ、熱し、灼き、命を奪い取ろうとしている。
まして仔ガゼルはここ数日、何も口にしていないのだ。
初めのうちは夢中で片耳の後を追っていた彼だが、次第に脚の動きが重くなり、遅れがちになってきた。
片耳は後ろを振り返りつつ、周囲の警戒も怠らなかった。
ライオンや豹などは恐ろしい敵だが、基本的に日中はあまり活動をしないので、不用意に近づきさえしなければ危険は少ない。
それよりも警戒すべきは、ハイエナだ。
奴らは群れで行動し、獲物を集団で取り囲んだり、執念深く追いたてるなどの方法で狩りを行う。弱ったガゼルの仔など恰好の獲物だ。
どうか奴らに見つからないようにと祈るような気持ちで、片耳は仔ガゼルを引き連れて草原の中を進み、仔ガゼルもまた懸命にその後を追った。
そうしてしばらく歩くと、草地の向こうに大きな水たまりが見えてきた。
雨季の名残りである、泉のような広い水場。ここが片耳の目的地だった。
片耳は、食事をとろうとしない仔ガゼルにせめて水だけでも与えようと、この場所を目指したのだ。
水場では、多くの獣たちが思い思いに渇きを癒していた。
ヌーやシマウマなどの草食獣に加え、対岸にはライオンの姿も見えた。
様々な種族が、争い合うこともなく穏やかな空気の中で過ごしている。
その秩序を司っているのは、あるいは無関心を装い水辺に戯れる、数頭の象の存在だったかも知れない。
圧倒的な力は、ただそこにあるだけで周囲に無言の圧力を与える。
この王者の前でいさかいを起こし、不用意に機嫌を損ねようとするような愚か者は、この場にはいないようだった。
片耳がヌーの群れの間に歩を進めると、彼の数倍もの体躯を持つ彼らは、うるさそうに眼を向けつつも素直に道を開けた。
片耳は大型獣の間を恐れもせず、水際へと進む。仔ガゼルはその後に続き、水辺に到着すると大喜びで口先を水中に突き入れた。
夢中で水を飲んでいる仔ガゼルの傍らで、片耳は周囲に警戒の眼を向けた。
一見平和そうに見えても、水中にはワニが隠れていることもある。
だが川辺ならともかく、ただの水溜まりであるこの水場にそんなものがいるはずもなく、深みには数頭のカバが水面から顔を覗かせているだけだ。
他には、周りを取り囲むヌーが不思議そうな顔でこちらを見つめるのみ。片耳はようやく警戒を解くと、仔ガゼルにならって水を飲み始めた。
―――*―――*―――*―――
存分に喉の渇きを癒し、元気を取り戻した仔ガゼルを伴って、片耳は再び藪の住処を目指した。
仔ガゼルは、往路とは見違えるような力強い足取りで後をついてくる。
片耳は前を歩きながら、藪に着いたらこの仔を置いて狩りに出ようと考えていた。
獲物は、探せばすぐに見つかるだろう。こいつも元気になったようだし、今度はちゃんと食べてくれるだろう、と。
そう思いながらふと草原に眼を向けると、遠方に見慣れた獲物の影が見えた。
ガゼルの群れだ。
片耳は立ち止まり、傍らに立つ仔ガゼルを見た。
あそこにいるのは、獲物の群れだ。そしてここにいるのは、獲物ではない。どちらも同じものだが、同じではない。
なぜなら、自分がそう思うからだ。
不思議な感覚に捕われながら、それを不合理とは少しも思わなかった。
ただ、彼方に集う群れをじっと見つめる仔ガゼルに、何となく納得しただけだ。
ああ、あそこに行きたいのか、と。
それが望みなら、そうすればいい。
あれはお前の仲間だ。いるべき場所に帰るのならそれで別にかまわないと、そう思った。
だが片耳が歩き出すと、仔ガゼルは慌てたように後をついてきた。
片耳は思わず立ち止まり、群れと仔ガゼルを見較べた。おいおい、あっちに行かなくていいのか、と問いかけるように。
仔ガゼルはそんな片耳の顔をじっと見つめたまま、尻尾をプルプルと震わせる。まるで群れのことなど、もう忘れてしまったかのように。
片耳は振り返って再び歩き出しながら、腑に落ちない気持ちと同時になぜか安堵を憶えている自分に気付いて、さらに困惑した。
―――*―――*―――*―――
歩きながらふと、神経がざわつくのを感じた。
追う者の気配。
いや、気配を隠そうともせず、あからさまに存在を誇示している。それも一頭ではない、複数だ。
片耳は振り返ると、ガゼルの仔を背後に置いて体勢を低く構えた。
すると近くの草陰から、数頭の獣が姿を現わした。
くすんだ枯草色に斑模様の体躯、特徴的な大きな耳と、冷酷な眼。
ハイエナだ。
片耳は前脚を踏みしめ、声を上げて威嚇した。
仔ガゼルはその後ろで身を固くしている。
ハイエナたちは二頭の周りを取り囲み、隙をうかがう。全部で六頭、群れとしては少数だ。
とはいえ、こちらに勝ち目などないのは明らか。普段であれば、一目散に逃げ出してしまうところだ。
だが今日は、そうはいかない。自分には、守るべき者がいるのだ。
正面の一頭が、無造作とも見える足取りで近づいてきた。
片耳が唸り声をあげながら前肢で掻こうとすると、そいつはヒョイと飛び退き、小馬鹿にするように右へ左へと体を揺らす。
片耳がなおも追い立てようとしたその時、後ろから迫った一頭が仔ガゼルに襲いかかろうとした。
片耳は、瞬時に向きを変えそちらに飛びかかった。
弾けるような俊足で一気に距離を詰め、低い体勢から喉元を狙う。不意を突いたつもりのハイエナはその油断を逆手に取られた格好になり、間一髪、片耳の牙を逃れて後方に跳び退った。
片耳は激しい威嚇の声を上げながら、四方に視線を走らせる。
周りを取り囲むハイエナたちは焦る様子もなく、一頭ずつ襲いかかるそぶりを見せては片耳の反撃にそそくさと下がるという挑発を繰り返した。
焦っていたのは、片耳の方だ。
短距離ランナーであるチーターは、持久力がない。当初から眼前の敵に対し全力で立ち向かっていた彼は、急速に体力を失っていた。
仔ガゼルは恐怖で身がすくんでいるのか、その場にじっと立ち尽くしたままだ。不用意に駆け出すよりは良いが、このままでは身動きが取れない。
こちらの疲れを見透かしたか、敵の一頭が突進してきた。
まともにやり合っても勝ち目はない。だが片耳はひるむことなく正面から飛びかかり、鋭い牙をかわしてその顔面に前肢を叩きつけ、剛爪で両眼を引き裂いた。
ハイエナが、悲鳴を上げてのたうち回る。
その隙に別の一頭が仔ガゼルを襲った。
後ろ脚に噛みつこうとしたところに、片耳が猛然と立ち向かう。仔ガゼルは逃れようと跳ね上がるが、その腿を牙がかすめた。
辛うじて捕らえられはしなかったものの、鋭い牙先が皮膚を切り裂き、鮮血をほとばしらせる。
片耳はハイエナの伸び切った喉元に喰らいつき、力の限りに頭を振って食い破ろうとした。
チーターの非力な顎ではそれは叶わぬものの、致命傷に至らずとも大きな痛手を与えたには違いない。敵は力ずくで牙を振りほどき、苦鳴を漏らしながら後ろに下がろうとする。
片耳はその背後に追いすがり、さらなる爪撃を振るった。
臀部を裂かれたハイエナは、悲鳴を上げて逃げ出した。
片耳は仔ガゼルを傷付けられた怒りに我を忘れ、うずくまる仔の周囲を駆けまわりながら、咆哮を放ち、他のハイエナたちに次々と襲いかかった。
突然の狂乱と傷ついた仲間の姿に、ハイエナたちは気圧されたように逃げ惑う。
そして一頭が後ろを向いて逃走すると、他の五頭も後を追って走り去って行った。
片耳はハイエナたちの姿が見えなくなるまで威嚇の姿勢を解かなかったが、やがて息を吐くと、力尽きたように地面に身を伏せた。
そこに、仔ガゼルが身を寄せてくる。
心配そうに鼻面を押し付けてくる幼な仔に、片耳も鼻を擦り返して応える。
その温もりが嬉しかった。
二頭はしばらくその場で身体を休めた後、ふたたび立ち上がって歩き出した。
片耳は前を歩くのではなく、傍に寄り添い傷ついた仔を気遣った。
仔ガゼルもまた、片脚を引きずりながら彼に身体を預けるようにして、懸命に前に進む。
二頭の獣は身を寄せ合い、陽光降りそそぐ草原をとぼとぼと歩き続けた。
安らぎの、我が家を目指して。
―――*―――*―――*―――
成獣であれば、どうということもない傷。だが生後間もない、しかも食事もろくに摂っていない弱りきった体には、やはり大きな負担だったのだろう。
仔ガゼルは藪の住処にたどり着くと同時に、草の上に崩れ落ちた。
片耳は狼狽えた。
これほどの深手とは思っていなかったのだ。痛そうではあったが、ここまで元気に歩いて来たはずなのに、と。
仔ガゼル自身にとっても、それは同じことだった。
戦いの興奮と、目的地へ向かうという集中力、そして傍らに寄り添う片耳への信頼を糧に無我夢中で脚を動かして来た。
自分の身体がどういう状態なのか、倒れる瞬間まで少しも気付いていなかったのだ。
体力を使い果たした仔ガゼルは、眼を閉じて荒い呼吸を繰り返す。
大きく切り裂かれ左の腿は、流れ出た血で真っ赤に染まっていた。
片耳は傷を癒そうと、傷口を懸命に舐めた。少しでも元気づけようと、顔を舐めた。腹も舐めた。背も舐めた。体中を舐めた。
それしか、出来ることがなかったのだから。
やがて日がかげり気温が下がって来ると、仔ガゼルの呼吸もやや落ち着いてきたように見えた。
片耳は傍らに身を伏せ、その顔をじっと見つめた。
仔ガゼルは時折眼を開き、間近に彼の顔があるのを認めると嬉しそうに尾を震わせる。片耳がそっと舐めると、安心したようにまた眼を閉じるのだった。
そうやって片耳は一晩中傍に寄り添い、仔ガゼルを見守り続けた。
翌朝。
まどろんでいた片耳がふと眼を醒ますと、仔ガゼルはだらしなく舌を出した格好で横たわっていた。
片耳がギクリとして鼻面で小突くと、薄眼を開け、顔を上げてこちらに寄せようとしてきた。
ホッとして軽く舐め返すと、仔ガゼルは力なく眼を閉じる。
片耳は起き上がり、脚の傷を優しく舐め始めた。
夜の間も繰り返しそうしていたので、こびりついていた血は綺麗に拭い取られ、蠅や蟻に集られることもなかった。
だがそれでも、周辺は大きく腫れ上がり、裂け目の奥から赤と黄の混じった体液が染み出している。
片耳は懸命に傷口を舐め、顔を舐めた。そうすることで、頭をよぎる嫌な予感も拭い去ることができる。そんな気がして。
その間にも、仔ガゼルの呼吸は眼に見えて浅く、小さくなって行く。
それとは真逆に、不安がどんどん膨らんでくる。
片耳は、懸命に舐め続けた。
時折、呼吸が途切れると鼻面で小突き、前肢で叩いて呼びかける。
その度に仔ガゼルは薄く眼を開き、彼に応えた。
やがて陽が頭上に昇り、見降ろす自分の影が、その顔を覆うようになった頃。
幼いガゼルの仔は、片耳のチーターが見守るその前で。
クウ……と小さく鳴いて。
ハタ……と微かに尾を振って。
ゆっくりと。
目を瞑って。
動かなくなった。
世界から、全ての音が消えた。その時……。
片耳は、かつて経験したことのない激しい感情が、体の奥底から湧き上がってくるのを感じた。
それは。
狩りをしくじった時の口惜しさにも似て。
獲物を横取りされた時の怒りにも似て。
枯れた水場を見つめる時の渇きにも似て。
長雨で狩りが出来ない時の焦燥にも似て。
でも、そのどれとも違う。体中を掻き毟りたくなるほど耐え難く、理不尽で不可解な感覚。
片耳は、それを表す言葉を知らなかった。
そこにいるのに、いなくなってしまう。あるべきものが、失われてしまう。
耐え難い息苦しさと受け入れようのない喪失感に、彼は己の体をバラバラに引き裂きいてしまいたい衝動に駆られた。
ぎゃうっ
喉の奥から、声が漏れた。
これまで一度も発したことのない、絞り出すような声だった。
ぎゃうっ
自分の声とは思えなかった。
叫ぶほどに、胸が潰れるように締め付けられる。自分の中で、自分ではない何かが叫んでいる。そんな声だ。
ぎゃうっ……!
ぎゃうっ……!
繰り返す。
ぎゃうっ……!
ぎゃうっ……!
呼びかけるように繰り返す。
だが目の前に横たわる小さな者は、その声にすら何の反応も示さなかった。
鼻面で小突いた。
前肢で叩いた。
呼びかけても。誘っても。
声も返さず、露ほども応えぬそれに、怒りが込み上げてきた。
こんなものは知らない。こんなものは見たくない。
片耳は両脚の爪を叩きつけるように地面を掻き、声を振り絞った。これほどまでに心を乱すものが、ここにあってはいけなかった。
怒りにまかせて、喉元にかぶりついた。
すると、口の中に広がったのは、よく知っている温かい血の匂いだった。
頭を振り、食いちぎると、肉の味がした。
その瞬間、果てしない飢えと渇きが彼の全身を支配した。
腹を破る。臓物を引きずり出し、細い脚を噛み砕く。
血をすすり、肉を食む。
飲み下すごとに、満たされぬ思いが消えて行く。
片耳は我を忘れて、獲物をむさぼり喰らった。
それから、どれほどの時間が経ったのか。ふいに腹がくちた感覚を憶え、我に返った。
身体を起こし、脚を引いて後ろに退がる。
自分がたった今夢中になって牙を突き立てていた、ものを見つめた。
そこにあったのは、見慣れた草食獣の仔。ありふれた獲物の残骸だった。
自分は今まで何をしていたのか。
先ほどまで自分を支配していた激しい感情は、いったい何だったのか。
ここにいたのは、何者だったのか。
何も思い出せなかった。
その時、かすかな風が鼻先を撫でた。
ふいに言い知れぬ不安に駆られ、怯えたように辺りを見回した。
そこにあるのは、いつもと何も変わらぬ風景。
変わらぬ陽の光と、変わらぬ風の匂い。
だがその全てが、見知らぬもののように思えた。
目の前に横たわるそれが、とても遠くに感じた。
言いようのない居心地の悪さに、体が震えた。
ここにはもういたくない。今すぐこの場所から逃げ出したい。
どこでもいい。ここではない、どこか遠い所へ。
ただそれだけを望んで、彼はその場所に背を向けた。
何かに追い立てられるように、叢を駆け抜け。
遥かな草原の彼方へと。
走り出した。
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