ぬ:ぬりたくる

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ぬ:ぬりたくる

 二歳年下の妹は、なかなか喋り出さない子だった。文字を指差して読み上げる事は可能なのだが、それを単語以上にして発する事が少ない。 「にーに、にーに」  そう言いながら自分の後を追ってきては、こてん、と転び、「たい、たい」と泣きじゃくる。  五歳になってもそれなので、さすがに子供なりに危機感を覚え、両親に言ってみたのだが。 「心配無い。お前が早すぎたのだよ」 「貴方はお父様に似て、頭が良くて優秀だから」  父も母も、実に呑気な返答を返してきたので、この件に関しては頼りにできない、と両手で顔を覆った。  そんな妹は、言葉の代わりに絵で語る。色鉛筆を握り、輪郭を描いて色を塗る。  それは、兄である自分の顔だったり。  お茶の時間に食べたマフィンだったり。  家族で遠乗りに出かけて見た、不毛な大地にも咲く花だったり。  とにかく、絵はしっかりしていたので、彼女はただ喋るのが苦手なだけで、人並みに成長はしているのだと、伝わった。  だが、時折その絵に妙なものが混じる事があった。  この国以外の兵士など見た事も無いはずの彼女が、鎧も馬も真っ赤な騎士の絵を描く。  草地に倒れて赤く染まる旅人の絵を描く。  赤の色鉛筆はどんどん削れて縮まり、何本か買い換える羽目になった。  そして、ある日。 「……おにいちゃん」  珍しく自分をきちんと呼んだ妹の言葉に振り向くと、妹は菫色の瞳を今にも泣き出しそうなほどに潤ませて、一枚の絵を見せた。  妹と同じ、薄緑の髪を長く伸ばした女性。母だ。妹がよく描いているのでわかる。  だが、絵の中の母はベッドの上で手を組み、瞳を睫毛の下に隠して。  口の周りから、白い寝間着、毛布まで。やはり赤く塗りたくられていた。  母が大量の鮮血を吐いて倒れたのは、それからすぐだった。  父が母を寝室に運び、医者を呼びにいっている間、泣きじゃくる妹をなだめながら、母の傍らで見守っていると、母はうっすらと菫色の瞳を目蓋の下からのぞかせ、 「ごめんなさいね」  と、心底申し訳無さそうに、儚く微笑んだ。 「きっとその子は、私の血を強く引いているの」  曰く、母は未来を『視る』力を持つ巫女一族の出身であると。『視える』未来は不確定だが、何もしなければほぼ確実にその通りになると。 「なら」  妹が『視た』、母が血に染まる未来を変える方法があるのではないか。身を乗り出すと、「駄目なのよ」と母は弱々しく首を横に振った。 「未来を知るからと下手に介入すれば、より悪い未来が『視えて』しまう事があるの。私は一度、介入してしまった。きっとこれは、その罰ね」  自嘲気味に唇を少しだけ持ち上げて、母はこちらを向き、「だから」と、震える手を息子の頬に当てる。 「貴方が、この子を守ってあげて。その力に押し潰される事が、無いように」  子供の頭で、全てを納得したわけではない。だが、妹を守るという炎を胸に宿し、力強くうなずくと、母は「ありがとう」と満足げに笑って、目を閉じた。  父が連れてきた医者が見たところ、母は知らず知らずの内に、内臓の病に蝕まれていた。  そして、一月もしない内に、眠るように息を引き取った。 「アルフォンス兄様」  玄関先で、遠征の為の準備を最終確認していると、妹の声が耳朶を叩いた。 「今日も行かれるのですね」 「ああ。すまない、ファティマ。君の誕生日も近いというのに」  母の死後、彼女の意思が乗り移ったかのように突然流暢に喋り始めた妹は、赤い色鉛筆で塗りたくる事は無くなった。その代わり、『視た』ものを言葉で語るようになり、人々に気味悪がられ、結果、幼い頃より他者を恐れるようになってしまった。  母に次いで父も亡くなった今、妹を守れるのは、自分しかいない。だのに自分は、騎士として彼女のもとを離れてばかりだ。  愛想を尽かされないか、気になると同時に、不安も湧いて出る。  自分が妹のもとを離れている間に、妹が、自分の末路を『視る』のではないかと。  だから自分は、殊更朗らかな笑顔を弾けさせ、努めて明るい声で言うばかり。 「そうだ、遠征先でお土産を買ってくるよ。髪飾りがいいかな。似合う物を探してくる」 「……はい」  今にも不安に取って代わられそうな笑みを、妹が見せる。だが、このいつも見せるこの笑みを妹が浮かべる限り、彼女が兄の未来を紙に赤く塗りたくる日は、まだ来ない。そう、確信できるのであった。
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