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け:幻想邂逅
「……困りましたね」
深い森の奥で、エステルは一人、途方に暮れていた。
帝国軍をわざと森林地帯に誘い込み、迷ってばらばらにはぐれたところを各個撃破する。そういう作戦だった。
だが、いつの間にか、迷う立場になる者が入れ替わってしまったらしい。叔父も友人達も、周りを守っていた仲間達も、誰一人姿が見えない。そんなに深追いしたつもりは無かったのだが、一体これはどういう事か。
魔族の術にでもはまってしまったのだろうか。だとすると、待ち伏せをしたつもりが、逆に伏兵に襲われるかもしれない。汗をかく手で長剣を握り直した時。
がさがさと、後方の茂みが揺れる音がして、エステルははっと振り向き、剣を正眼に構える。
だが、茂みを抜けて出てきた人物は、帝国兵だろうという予想を裏切っていた。
少女だった。身長は自分と同じくらいで、年齢はほんの少しだけ年上だろう。目の覚めるような金髪を肩に流し、軽鎧を身に着けて、細身の剣を手にしている。
だが、敵意は感じられない。むしろ、胸を締め付けられるような懐かしささえ覚えて、剣を掲げていた手が、自然に下ろされる。
相手の少女も、つりがちな翠――そう、自分と同じ翠の――瞳を見開いて、たしかに呟いた。
「……母様」
と。
「えっ」
思わず間の抜けた声が洩れる。
「あの、すみません。私が貴女の母親という可能性は無いのですが」
そう。エステルはまだ十六歳。こんな大きな娘がいるはずが無いし、第一、結婚すらしていない。
それを聞いた少女は、「あ」と焦ったような小さい声を零して、剣を握った右手を下ろし、反対の手を顎に当て、横を向く。
「そうか、ここは。……そうだね、通じるはずが無い」
こちらよりやや低めの、顔つき通り気の強そうな声でぶつぶつ言っていた彼女は、手を下げ、再度エステルに向き直ると、どこか曖昧な笑みを浮かべてみせた。
「すまない。知り合いに似ていたので、勘違いをしてしまった」
口調はさばさばしているが、男勝りというわけではない。むしろ、手入れされてはりつやのある髪と肌、安物ではなさそうな装備、そして、ひとつひとつの所作からにじみ出る細やかさが、『この娘はやんごとない出身の者である』という印象をエステルに与えた。
「とにかく、ついてきて。貴女の仲間のところへ帰れるから。それまで、貴女は私が守るから」
少女が背を向け、肩越しに振り返る。エステルは自分と同じ色の瞳を、じっと見つめる。
女だからといって、安心して良いわけではない。大陸情勢の不安定な現在、各地に跋扈する盗賊にも、女性がいるはずだ。わざわざ小綺麗な格好をして油断させ、罠に陥れようとする為に、赤子の頃にさらってきた娘を育て、誘惑する術を仕込む賊もいると、叔父のアルフレッドは言っていたではないか。
だが、相手の真摯な瞳を見ていると、思い出す記憶がある。
『絶対、手ぇ離すなよ!』
幼い日の思い出、村の裏山で一人迷った時に、探しに来てくれた幼馴染の、精一杯強がった声が、脳裏に蘇る。
『帰るまで、おれが守るから!』
何故だか、彼の顔と、目の前の少女の顔が、だぶって見える。ごしごしと目をこすって再び視界を開けば、こちらの反応を待つ少女の姿だけが残るばかりだったが。
信じてみて、良いだろう。
エステルが一歩を踏み出したのを見届けると、少女は前を向き、細身剣でばさばさと枝葉を払いながら歩き出した。帝国兵に聞かれればあっという間に敵を集めかねないが、これは獣を払う為の音出しであると気づく。この少女は、自分と同じく、戦い抜いて生きる方法を、誰かから教えられている。その確信を得る行動であった。
無駄な会話の一切無い、二人きりの行軍。だが、やがて木々がまばらになり、森の出口が見えてきた時には、エステルは詰めていた息を、安堵と共に吐き出した。
「ありがとうございます」
一瞬でも疑ってかかった自分の、見る目の無さが恥ずかしい。深々と頭を下げると、「いや」と少女はふるふる首を横に振った。
「貴女を助けられて良かった」
その言葉に顔を上げれば、少女はどこか寂しそうに、エステルが遠くにいるかのように、瞳をすがめて微笑を浮かべてみせる。そして、剣を鞘に納め、手を組み、軽くうつむく。
何かを言いあぐねているのはわかった。だが、何を言おうとしているのかわからない。エステルが小首を傾げると。
「貴女には」
少女がまっすぐにこちらを見つめ、言葉を選びながら喋っているのが察せられる言い方で、告げた。
「この後も、多くの苦難が待っているだろう。でも、貴女なら、それを乗り越えられると信じている。それが」
一拍置き、続けられる。
「それこそが、私の誇りである『エステル・レフィア・フォン・グランディア』だから」
それだけを言い残し、少女はざっと地を蹴ると、来た道を引き返し走ってゆく。
「まっ……」「エステル!」
その台詞の意味を求めて手を伸ばしかけたエステルの耳に、聞き慣れた声が滑り込んできた。
「ったく、お前! いきなりいなくなるから、探したんだぞ!」
幼馴染の少年が、怒り半分安心半分といった表情と声色で駆け寄ってくる。
「帝国兵に襲われてたらって、アルフさんが心労で胃痛起こしたんだからな。後でちゃんと謝りに行けよ」
「すみません……」
どうして一人きりになったのか。それがわからないのに謝るというのも変な話だとは思う。だが、皆に心配をかけたのは紛れも無い事実だ。しょぼんと眉を垂れて詫び、それから、ふっと、目の前の少年を見る。
目の覚めるような金髪。色は翠と蒼で違うが、つりがちな目。そういえば、顔立ちも全体的に似通っている気がする。
「今度は何だよ、人の顔じろじろ見て」
居心地悪いだろ、と顔をそむけられて、「すみません」と再び謝罪する羽目になる。
(まさか、ですよね)
脳裏に浮かびかけた確率の雲を、首を横に振る事で追い出し、エステルは、森を振り返る。
あの少女の姿は既に無い。
この不思議な邂逅は、自分一人の胸に仕舞っておいた方が良さそうだ。そう判断した彼女は、少年の後を追って、歩き出すのであった。
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