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こ:氷のごとく
少女は林の中を駆け抜けていた。
早く。一刻も早く。誰かに知らせなくては。
とにかくできるだけ早くこの林を抜けて、できるだけ早く誰かに気づいてもらわなくては。
追手がへらへら笑いながら斧を手についてくる気配が、じりじりと背後に迫るのを感じながら、幼い身で懸命に駆ける。
「あっ」
張り出した根に足元をすくわれ、情けない悲鳴と共に地面に倒れ込む。斜めになる視界で、目の前すれすれを固そうな岩が横切って、これに頭をぶつけていたらと思うと、冷や汗が吹き出た。
だが、転んだ痛みと服の汚れを気にしている場合ではない。とにかく立ち上がらなくては。土のついた顔を上げた時。
「誰か、そこにいるのか?」
呼びかける声に、少女はびくりと身をすくめ、そうして、前方からやってくる人影を、目をこらして見つめた。
年の頃十五、六だろう少年だった。穏やかそうなロイヤルブルーの瞳でこちらを見、ともすれば少女にも見えそうな端正な顔に、怪訝そうな色を浮かべて首を傾げる。
「た、助けてください。あたしの村が」
言いさして、ぐっと口をつぐんで怯えを見せた少女の胸中を察したのだろう。少年は困ったように眉を垂れて、「大丈夫」とゆっくり歩み寄ってきた。
「僕達はこの一帯を荒らす盗賊団の退治を請け負っている兵だ。怖がらなくていい」
右手に槍を握り、左手で少女の頭をぽすんと一回撫でて、少年は彼女の脇を通り抜ける。その時に見上げた瞳は、氷のごとく冷え込み、冬の平原を思わせる無慈悲さを感じさせた。
「ああん? 何だ?」
その時、少女を追いかけてきた盗賊達が追いつき、ばらばらと少女と少年を囲む。
「傭兵か? 邪魔するんじゃねえよ」
「お前らだって、金に困れば無闇矢鱈に戦うんだろ? 俺達の仕事と同じだ」
少年は、それには応えず、右腕を高々と掲げる。少年の背丈ほどはある、返し刃を持つ、緋色の布を柄に巻いた槍が、鋭く青白い光を放ったかと思うと。
後は、容赦無かった。
一歩を踏み込んで、槍を突き出す。その一撃は過たず先頭の賊の胸を突き、盗賊は驚愕に目を見開きながら倒れてゆく。
「なっなんだおま」
皆まで言わせず、二振り目が喉を斬り裂く。
「やっ、野郎!」
三人が同時に襲いかかるが、少年は全く動じなかった。上半身を捻って溜めを作り、回転する勢いで複数人の胴を薙ぎ払う。
青白い輝きは、ものの数分とかからずに、その場の盗賊を全滅せしめた。
少女は立ち上がるのも忘れ、ぽかんと口を開けて、その様子を凝視する。
『相手を間違えた』そう思ったが、『自分は使命を果たさねばならない』。
懐に手を伸ばし、ゆうらりと立ち上がる。少年はまだ背を向けたままだ。これなら、気づかれる前に。そう思った瞬間。
氷点下に凍ったロイヤルブルーの瞳が鋭くこちらを射抜くと同時、胸に熱が走る。
「あ、ああ……?」
青白く輝く槍の穂先が、自分の胸に吸い込まれるように刺さっているのを視認すると、ごぽりと血の塊を吐き出す。手に握った短剣が、ぽろ、と地面に零れ落ちる。
「不憫だ」
少年の憐憫を込めた声が聞こえ、槍が引き抜かれる。
『役目』を果たせなかった少女は、その場にがくりと膝をついて再び倒れ込み、永遠に意識を手放した。
「アルフォンス隊長!」
死体と化した少女を見下ろしていた少年に、呼びかける声がある。
「やはり、この林の奥の洞窟に、奴らのねぐらがありました。今しがた、制圧を終えたところです」
「ご苦労」
自分より年上の部下に向かって、隊長と呼ばれた少年――騎士は淡々と返し、二度と動かない少女の屍を見下ろす。
女の赤子をさらって育て、旅人や傭兵に『村を襲われた』と訴える娘の振りをさせて、自分達の領域へ引きずり込み、金品や命を奪う盗賊団。この国だけではなく、今、大陸中に、そのような無法の輩が跋扈している。彼らを殲滅させる事はできず、こうしてひとつひとつ虱潰しに消してゆくしか無いのだ。
だが、盗賊団をひとつ消したところで、他の場所でふたつみっつは新たな賊が生まれる。自分達のしている事の無意味さを噛み締められずにはいられない。
それに、戦が起きれば自分達は国王の命令で国外にも赴く。自分達が他国で、奪う為の戦いを余儀無くされるのだ。無益の連鎖に、自らの力の及ばなさを痛感する。
「隊長」
見かねたのか、部下が殊更明るい声をかけてきた。
「後始末と報告書の提出は俺がしますから、今日は早く帰ってください。妹さん、賊討伐の度に、いつもくらーい顔して待ってらっしゃるんでしょう?」
「……ああ、すまない。ありがとう」
部下の気遣いに感謝しながらも、胸に吹き込む冷気は去らない。
今しがた命を奪ったこの少女も、きっと、王都の実家で自分の帰りを待っている妹と、同じくらいの年齢だろう。道を間違えれば、妹がこの少女の運命を辿りかねなかった。
あとどれだけ、この不条理な時代が続くのだろうか。終わりを告げる事はあるのだろうか。少年の心は、氷の塊が落ちたかのように、冷たく、重くなってゆくのであった。
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