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あ:愛の証をこの名に抱き
少年は、王国騎士の息子だった。ただし、そうとは認められない形で。
女癖の悪い騎士が、侍女に手を出して生まれた子供。代々の家名に甘んじて騎士として優秀ではないくせに、貴族としての矜持だけはご立派な父親は、罵声と暴力を浴びせながら、母子を屋敷から追い出した。
王都の裏通り、貧しい者が流れ着くぼろぼろの家で、母親は針仕事で日銭を稼いでいたが、次第に心を病み、寝込む事が多くなった。
「貴方のお父様は立派な騎士様なのよ。いつか必ず私達を迎えにきてくださるから」
病床の母は、夢見る少女のような瞳で空を見上げ、そう繰り返し、コリウスの植木鉢を、窓辺に飾って愛で続けた。
何故、そんな物を大切にするのか、問うた事がある。すると母はそれはそれは幸せそうに、恋する少女のように頬を赤らめて、答えたのだ。
「これが、貴方のお父様が唯一私にくれたものだからよ」
母は知っていたのだろうか。コリウスの花言葉は『実り無き恋』。
母の想いが父に届かぬように。コリウスの花は、葉の美しさを損なわぬ為に摘まれてしまうように。
母と自分は、父にとってはコリウスの花のごとく、不要のものに過ぎなかったのだ。
やがて母は冬の朝に眠るように亡くなり、少年は孤児院に引き取られた。
「不要な物は全て置いて来なさい。こちらで用意しますから」
マザーの言葉に従い、枯れかけたコリウスの鉢は、窓辺に残されたままになった。
かつて大陸を魔王の恐怖支配から解き放った聖王神ヨシュアを信じれば、必ず救いが訪れる。シスター達はそう説いて、少年に祈りを捧げる事を推奨した。祈っても、母は還らず、孤独の風が吹く心が癒される事も無いのに。
荒んだ瞳をする少年を見かねたのだろうか。ある日、マザーが少年を呼び出し、
「貴方の名前はね」
と、諭すように告げた。
「『世界の誰もが敵に回っても、私だけは貴方の味方であり続ける』という、名をつけた人の愛情の証なのですよ」
世界『アルファズル』の一部である、アル、またはアルフを帯びる名の者は、名付け親の無償の愛を一身に受けているのだと。
天地がひっくり返るような衝撃だった。少年の名付け親は母だ。虐げられた思い出と、やせ細った腕の記憶と、枯れかけのコリウスの残像しか遺してくれなかった母が、永遠に自分の味方であると、大きな愛情の証を遺してくれたのだ。
その日から、少年は形ばかり神に祈る事をやめた。代わりに木剣を振るい、戦い方を身につける事で、父を見返せるほどの戦士として名を挙げようと決意した。
お前が不要と棄てた自分は、母の愛を受けて、たしかにここに存在しているのだと、主張する為に。
その後、様々な人生の変転を見せた結果、少年は大人になり、王国一の聖剣士と呼ばれるようになった。
その誇りは、王国が失われた今でも、時に折れそうな彼の心を支え続けている。
「アルフレッド叔父様」
水色がかった銀色の髪を揺らし、翠色の瞳を細めて笑いかける、いつかは大陸の希望の光となる少女。彼女に名を呼ばれる度に、彼は母の愛を思い出し、もういない人々の笑顔を思い出し、失われた王国を取り戻す為の決意を、新たにするのである。
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