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の:呑み込んだ言葉
『過去を変えようとしている連中のせいで、君の母親が危機に瀕している』
唐突に現れた人物は、そうイリスに告げた。
『彼女に万一の事があれば、君の存在も消える。過去に飛んで、助けにいく事はできる。どうする?』
そう薄く笑って小首を傾げる様は、こちらの答えをわかりきっている事を如実に示していた。
深い森の中を、イリスは抜き身の剣を手に進んでいた。この森を抜ける道はわかっている。だが、森の外へ一人で出る事が、今回の目的ではない。獣を寄せつけないようにばさばさと茂みを払いながら、木々の合間を進む。
やがて、人の気配がして、イリスの心臓は緊張に高鳴った。
不審がられないだろうか。こちらを信じてくれるだろうか。ついてきてくれるだろうか。
視界が開けた時、表情を強張らせて剣を正眼に構える少女が、イリスを待ち受けていた。
歳は自分より少し下。水色がかった銀髪を高い位置でまとめ、翠――自分と同じ翠の瞳が、油断無くこちらを見すえている。
思わず、言葉は口を衝いて出ていた。
「……母様」
「えっ」
途端、少女――若き日の母エステルは、間の抜けた声を洩らし、イリスよりも高く澄んだ声で、戸惑い気味に返してきた。
「あの、すみません。私が貴女の母親という可能性は無いのですが」
「あ」
『必要以上の事は言っちゃ駄目だよ』
過去に飛ぶ前にそう釘を刺された事を思い出し、小さく零す。剣を持った右手を下ろし、反対の手を顎に当て、横を向いた。
「そうか、ここは」
そう、ここはイリスが生まれる前の時代。母は戦乱の只中にいて、将来の相手どころか、自分がこれからどのような道を辿るのかさえ、まだ知らない。
「……そうだね、通じるはずが無い」
一人納得し、顎に当てていた手を下げると、再度母に向き直り、誤魔化すように笑ってみせる。
「すまない。知り合いに似ていたので、勘違いをしてしまった」
何とも苦しい言い訳である。だが、
『女王陛下はお若い頃は、鈍感でありましたから』
守役のクラリスが、たまに飛び出す毒舌でそう苦笑した事があるのを回顧して、まあ、大丈夫だろう、とひとつ息をつく。
向こうは自分の様子を探っているようだ。手入れされた武具を身につけているので、盗賊と思われる事は無いだろうが、こんな時、相手を安心させる所作のひとつも身につけてこなかった、奔放な王女である身を呪わしく思う。
だが、無いものをねだっても仕方無い。若き日の母に背を向け、肩越しに振り返る。
「とにかく、ついてきて。貴女の仲間のところへ帰れるから。それまで、貴女は私が守るから」
同じ色の瞳が、じっとこちらをうかがっている。彼女の心中では、彼女なりの考えが巡っているだろう。ここで「信じない」と言われたら、全てが失敗してしまう。敵の目論見の前に母の命は消え、大陸の歴史はことごとく変わり、どんな厄災が降ってくるか。想像もつかない。
しかし、母はどこまでも、向かい合った人間を見極め、信用しようと努力する人だった。唇を引き結び、静かに一歩を踏み出す。イリスは前を向き、気づかれない程度に安堵の吐息を洩らすと、また剣でばさばさと茂みを払いながら進み始めた。
話したい事は沢山ある。
期待に添えない娘で申し訳なかった、と。
肝心な時に傍にいられなくて済まなかった、と。
今自分が知る貴女の身を案じると、胸が痛くなる、と。
だが、それらは口にしてはいけない言葉だった。イリスの知る未来を話してしまえば、更に歴史が混乱する可能性が高い。それは、過去に送り込まれる時に、口を酸っぱくして忠告された。
だから、イリスは様々な言葉を呑み込んで、二人きりの行軍を続ける。やがて、木々がまばらになり、森の出口が見えてくる。背後でエステルが安心した、とばかりに溜息をつくのが聞こえた。
「ありがとうございます」
その言葉に振り向けば、若い母は深々と頭を下げてくる。「いや」イリスはふるふると首を横に振った。「貴女を助けられて良かった」
目をすがめて微笑を浮かべれば、顔を上げた母が不思議顔で見つめてくる。イリスは剣を鞘に納め、手を組み、軽くうつむく。
これ以上話してはいけない。来し方に関わってはいけない。それでも。
「貴女には」
それでも、告げずにはいられなかった。
「この後も、多くの苦難が待っているだろう。でも、貴女なら、それを乗り越えられると信じている。それが」
一拍置き、先を続ける。
「それこそが、私の誇りである『エステル・レフィア・フォン・グランディア』だから」
これ以上は、駄目だ。イリスは唇を噛み、ざっと地を蹴って、来た道を引き返してゆく。
「まっ……」「エステル!」
少女が引き留めようとする声と、彼女を呼ぶ少年の声が重なって、イリスの耳に届く。
振り返りたかった。この踵を返して、自分の正体を明かして、抱き締めて欲しかった。だが、それをしてはならない。必要以上に過去に干渉してはならない。ただ、あるべき姿に戻さねばならない。
周囲の風景が歪んでゆく。それは、出ない涙で視界がぼやけたからではなく、イリス自身もあるべき場所に戻るからだ。
一瞬閉じた目を開けば、森の姿はすっかり無くなり、砦の一室で、椅子に腰掛けた状態に戻っている。
「おかえり」
青と紅の瞳が、労うように細められる。
「……ありがとう」
「こちらこそ。色々と制約を課して悪かったね」
礼を述べれば、相手はゆるゆると首を横に振った。
「疲れただろう? お茶でもしておいで。でも、他言は無用だよ」
その言葉にうなずき返し、イリスはふらりと立ち上がると、よろめくように廊下に出る。時間を超えた反動か、多少ふらつきながら歩いていると。
「おい」
突然肩をつかまれ、引かれるままに振り向いて、蒼の瞳と向き合う羽目になった。
「あんた、大丈夫か? ものすげえフラッフラしてるけど」
心の底から案じてくれている、青年の表情を前にすると、途端に様々な感情が胸の奥から湧き出てきて。
イリスは相手の胸に顔をうずめ、ふるふると肩を震わせる。
「えっ、あ? どうした!?」
何も知らない相手が動揺するのは当然だ。だが、『他言は無用だよ』の言葉に従い、時の彼方であった出来事は、話してはならない。だから。
「ごめん」イリスは詫びながらも、青年の服をつかむ手に力を込める。「しばらくこうさせて」
相手が戸惑う気配が伝わる。だが、彼はイリスの意を汲んでくれた。
「わかった」
その一言だけを返し、こちらの背中に手を添えて、ぽんぽんと、幼子をあやすように軽く叩いてくれる。
涙は出ない。だが、胸中で渦巻く感情の荒波がおさまるには、もう少しだけ、時間が必要だった。
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