も:モリガンはもう悪夢を見ない

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も:モリガンはもう悪夢を見ない

『竜の王国フィアクラには、竜神様が眠っておられる』  村の長老は淡々と告げた。 『この不作は、戦を繰り返す我々人間への、竜神様のお怒りに違いない。竜神様のもとへ赴き、お怒りを鎮められるようにお願いをしてきておくれ』  それは、辺境の貧しい村で、きょうだいの多い家族の、末の娘として生まれた少女への、態の良い口減らしであった。 『竜神様へのお供え物』と称した、行きの三日分だけの食糧を持たされ、特別に仕立ててくれた旅装束を身に纏い、北へ、北へ。かつて竜族の英雄ヌァザが王として立ったフィアクラの地に入ると、針葉樹の森は深くなり、昼間だというのに辺りは暗くなった。しぜん、十歳の少女の足は覚束なくてもつれる。 「あっ」  木の根に足を取られてすっ転び、バスケットの中身が撒き散らされて、『お供え物』はことごとく土にまみれた。  最早口に入れる物は無い。あとは漫然と死を待つばかりだ。村を出る時には我慢していた涙が、今更ながら目の奥からこみ上げてきて、その場にしゃがみ込み、感情のままにしゃくりあげていると。 「人間、か」  ぱきり、と。枝を踏みしだく音と共に、低い声が降ってきて、少女は吃驚(びっくり)して涙を引っ込め、のろのろと顔を上げる。そうして、感嘆に息を呑んだ。  背の高い青年だった。白くすらりとしたローブに身を包み、手足も長い。女性と見紛うほどの美貌を備えた顔には、宝石を填め込んだような金色の瞳が輝き、うっすらと金色を帯びた銀髪が、肩に流れている。 「竜神、様?」  銀髪は竜族が受け継ぐ、一族の証だ。少女が紫の瞳を真ん丸くして問いかけると、青年は困ったように眉間に皺を寄せた。 「まだ、そういう話を立てる者が、人間の中にいるのか」 「違うの?」  少女がぱちくり瞬きをして問いかければ、「違う」いささか不機嫌そうに青年は返してきた。 「我は雷竜のゼノン・アージェ。ヌァザ王とドリアナ姫なき後、唯一フィアクラに残った、ただの眷属。竜獣(ドラゴン)に変ずる事はできても、人の世を動かす事などかなわぬ」  けんぞく、というのが少女にはわからない。だが、村人達が常々言っていた、『竜神様』のように、天候を操ったり、罰を下したりという、特別な力は無いようだ。 「娘。お前のように、要らぬ子をフィアクラに棄てる人間達の醜さを、我は数百年見てきた」  さも廃墟に塵屑(ごみくず)を捨てるかのごとく、と、血の気の薄い唇から、小さな溜息が洩れる。 「竜は人を食らうと思われているようだが、我は人と同じような食事しかせぬ。さりとて、このままお前に村へ帰れ、とは言えぬ」  少女は土にまみれたエプロンスカートを、ぐ、と握り締める。わかっている事だ。あの村にもう自分の居場所は無い。帰ったところで、「竜神様のお怒りを鎮めなかった」と、今度は泉に沈められるあたりが関の山だ。  だから。 「わたし」  紫の瞳で、青年竜族ゼノンの、蛇のような瞳を見つめ、一言一言を噛み締めるように紡ぐ。 「ごはんが作れます。お洗濯も、お掃除も、一通りできます。誰にも言っていないけれど、旅のジプシーから教えてもらったから、カードで運命占いをする事もできます」  言うが早いか、『古くて使えないから、あげる』とジプシーに譲ってもらったタロットカードを懐から取り出し、手早くシャッフルして、一枚を抜き出す。色褪せたカードには、さんさんと輝く太陽の絵が描かれている。 「太陽の正位置。あなたはわたしを導いてくれる太陽です。だから」  人の言葉が竜に届くかはわからない。だが、きっと良い方向に転がると信じて、少女は深々と頭を下げる。 「あなたのお傍に、置いてください」  竜の青年はすぐには返事を寄越さなかった。どこか遠くで、聞いた事も無い鳥の声が響く以外は、音の無い世界。  要らぬと言われるだろうか。この場で縊り殺されるだろうか。少女の脳内が、灰色をした不安の雲でいっぱいになった頃。 「……五十年」  青年が、ぽそり、と零したので、少女は顔を上げる。銀色の双眸が、たしかにこちらの姿を映している。 「人は五十年ほどしか生きぬ。我々竜族は数百年以上を生きる。我はお前のように、帰る場所を失った娘を養っては、老いて旅立ってゆくのを、何度も見送った」  痛みを噛み締めるように唇の端を歪め、青年は続ける。 「お前が我に見送られるだけの人生で良いのなら、その名を我に告げよ」  少女が竜の言葉を咀嚼するのに、少々の時間が必要だった。だが、理解した途端、心底からの喜びが溢れ出る。  彼は少女を要らぬ子とは言わない。見捨てない。傍にいさせてくれる。 「――モリガン!」少女は笑顔と一緒に己の名前を口から弾けさせた。「モリガン・ルーです、ゼノン様!」 「ゼノン、と呼び捨てで良い」  青年が口元をゆるめて目を細める。笑ったのだ、と気づいた時には、彼は「ついてこい」と踵を返す。 「我が庵へ案内しよう。飯の炊き方は人間とは異なるかもしれぬから、おいおい覚えてゆけば良い、モリガン」  青年の口から放たれた自分の名が、岩に清水が染み込むかのごとく、胸を満たす。こんな思いになる呼び方をしてくれた人は、故郷の村にはいなかった。 「すぐに覚えます!」  もう、『モリガン』は要らない子の名前ではない。親兄弟の暴言に枕を濡らす悪夢の夜はもう終わりだ。きっと新しい朝は、幸せな夢から目覚めるに違いない。少女は軽い足取りで、竜の青年の後を追うのであった。
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