や:やがて来るその日まで

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や:やがて来るその日まで

 水色を帯びた長い銀髪が、白いドレスと共に、廊下へ吹き込む春風になびく。  当代のグランディア王妃、ドリアナ・バルクレイ・フォン・グランディアは、城内の廊下を早足に歩き、寝室の前まで戻ってくると、蛇のそれにも似た銀色の瞳を、ここまで伴ってきた騎士に向ける。 「もう良い。ご苦労だった」  白銀の鎧をまとった騎士は、「は」と胸に手を当て礼をし、すぐさま踵を返した。  人間は正直だ。大陸最大王国の高位騎士をして、竜族への畏(おそ)れは態度に表れる。だが、振り返る事無く遠ざかる騎士を責める気は、ドリアナには無い。こちらも、人間など欲に塗れた、数だけ多い短命の無力な種族、と仲間達と共に蔑んでいたのだから。  だが、その認識は、少々薄れてきている。この寝室の中にいる人間によって。  扉を開け、物音を殺して室内に滑り込む。それでも、愛しい者の気配に気づいたか、天蓋付きのベッドで横たわっていた人物は、小さく呻くと、ゆっくり身を起こした。 「おはよう、ドリアナ」  寝癖のついた金髪が揺れ、翠色の瞳が親しげに細められる。 「おはよう」  少々ぶっきらぼうにしか返せないのは、そういう育ちをしてきた故だ。父ヌァザは、人間の王族が社交界で生きる為の処世術など、教えてくれなかった。まさか我が子が、そんな世界に飛び込む羽目になるとは、夢にも思っていなかっただろう。  ドリアナ自身も思っていなかった。この青年――グランディア第十八代国王、アルベルト・オルテガ・フォン・グランディアに出会うまでは。  ベッドに近づき、縁に腰掛けると、夫の頬を両手で包み込み、額に軽い口づけを落とす。手と唇を通して、まだ高い体温が伝わってくる。季節外れの風邪は治りきっていないのだろう。 「まだ横になっていろ」 「大丈夫だ」  わしゃわしゃと髪を撫で回しながら少し怒った態で告げれば、アルベルトはくすぐったそうに身をすくめて、少年のような笑みを閃かせた。 「大分楽になった。それに、一日中寝ていたら身体が固まるし、また仕事が溜まって、文官達に嫌な顔をされる」  夫が寝込むのは、近々に始まった事ではない。生まれつき身体が弱く、『二十歳まで生きられるかどうか』と侍医に不吉な太鼓判を押されていたという。それが、頑健かつ厳格な先王が、狩りの最中に落馬で首の骨を折って呆気なく逝ったため、十五歳で即位した。以来十七年、三十二の齢まで生き長らえているのは、奇跡に等しいという。 「判を捺すだけの仕事なら、わたしが代わりにやると言っているだろう」  ドリアナが唇を突き出して不満を表せば、「駄目だ」とアルベルトは首を横に振り。 「今の君に、少しでも無茶をして欲しくない」  そっとこちらの腹に手を当てた。その腹は膨らみ始めている。 『聖王ヨシュアの直系血族は失われずに済む』と喜ぶ者。 『竜の血が混ざるなど』とあからさまに嫌味を吐き出す者。  両極端を、ドリアナは目の当たりにした。  正直なところ、人間の王族の事情などどうでもいい。ただ、竜の国フィアクラで、漫然と朽ちるのを待つ日々を送っていた自分を見初め、森の奥から連れ出してくれた男の子を産める事は、彼女にとって至上の喜びであった。  それが、己の命の蝋燭を大幅に縮める結果になるとしても。  竜は数百年を生きる。だが、他種族との間に子を為すと、残りの寿命は驚くべきほどに削られる。それが純血の竜族の摂理であり、それを知った人間や魔族によって、女の竜は狩られ、男の竜は伴侶を得られず、結果、竜族は衰退の一途を辿った。  ドリアナも、この腹の中の子を産めば、遅かれ早かれ、命の灯火は消えるだろう。病弱なアルベルトの死を見届ける事も無く。  それでも。 『君がいい』  真摯な翠の瞳で、まっすぐな情熱をぶつけてきた彼の言葉は、今も一字一句違えずに思い出せる。 『君以外を妻に迎えるなど、考えられない。君を妻にできぬならば、私は、自分の代でグランディアが終わってもかまわない』  王としてはとんでもない発言だ。あの時その場に王家の重鎮が誰一人としていなかったのは、幸いである。聞かれていたら、彼がドリアナを王城に連れ帰った時以上の大混乱が巻き起こっていただろう。  自分達の結婚は、余計な災いの種を蒔くかもしれない。それでも、この人しかいないと、ドリアナも思ってしまった。己が生涯を懸けても、彼を愛したいと思った。 「名前は」腹に手を当て、うっすらと、ドリアナは微笑む。「もう、決めている」 「私に、次代のグランディア王の命名権は無いのかい?」 「夢だったんだ。それくらい寄越せ」  たちまち情けなく眉を垂れる夫の額を小突いて、ドリアナは両目を閉じる。 『私が亡き後は』  まなうらには、今も鮮やかに父の姿が浮かぶ。声も鮮明に耳元で響く。 『フィアクラを存続させる事を考えなくて良い。お前の望むままに生きなさい』 (わたしは望むままに生きて、そして死にます、お父様)  やがて来る、愛しい人との永別の日まで、精一杯生きる。彼女はそう決意していた。  それは、運命の優女王ミスティ・アステア・フォン・グランディアが産まれる、数ヶ月前。  そして、ドリアナがこの世を去る数年前の、春の日差し暖かい午後であった。
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