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ら:乱舞する剣女神
「魔物だ!」
解放軍と帝国軍の遭遇戦の最中、誰かが叫ぶ声で、解放軍戦士ノクリスはびくりとすくみ上がり、周囲を見渡した。敵味方入り乱れる戦いのどこかで、魔物、魔物、と動揺の声が細波のように広がってゆく。それは同時に、恐怖の伝播をも。
帝国軍に肩入れしている魔族が召喚する異形、魔物。それは例えば大型なら一匹で、帝国兵数十人分の戦力を有し、戦い慣れていない者を瞬く間に蹂躙し、喰らう。
そしてノクリスはお世辞にも、練達の戦士とは言えない。エステル王女挙兵の熱に浮かされて、大陸解放の夢を紡ぐ一員になれたらと、薪割り以外に握った事の無い斧を手に、泣きつく両親を振り切って、解放軍に参加した新兵だ。
「キマイラが来たぞ!」「戦い慣れていない奴は下がれ!」
新たな警告が飛ぶのが早いか、上空を、魔鳥アルシオンでも魔獣グリフォンでもない影が舞う。行きがけの駄賃にと吐いた炎に、たちまち何人かが解放軍も帝国軍もお構い無しに巻き込まれ、地面をのたうち回った。
獅子、山羊、蛇の顔、鳥の身体、蠍の尾を持つ魔物キマイラが、ノクリスの前に降り立つ。まだ刃こぼれもした事の無いような戦斧を握り直す手は、じっとりと湿っている。逃げ出したいのに、足は地面に縫い止められたかのように全く動かない。
獅子の顔がゆるうりとこちらを捉える。このまま突っ立っていれば、その大口に呑み込まれて一巻の終わり。わかっているのに、身体は言うことを聞かない。喉に鉄の塊がつかえているようで、悲鳴すらあげられない。
首に死神の鎌がかかったのを、じわりと理解した、その時。
ノクリスの脇を誰かが駆け抜け、一閃が走り。
直後、ごとりと音を立てて、キマイラの獅子の首が、地に落ちた。
何が起きているのか、はじめはわからなかった。どうやら、首を落とされた魔物自身もそうだったようで、一拍遅れて、山羊と蛇の顔が苦悶の叫びで空気を引き裂く。
その間に、場に現れたノクリスの救い主は、軽い足音で着地すると、キマイラに向き直る。そして、痛みからめちゃくちゃに暴れるキマイラの翼や爪、蠍の尾を、舞でも踊っているような足捌きで華麗にかわし、次々と長剣で斬りつけてゆく。
刃が振るわれる度、キマイラの部位のどこかが飛び、鮮血が噴き出す。それはさながら、剣士の舞を紅く彩るかのよう。
剣神の乱舞。
ノクリスはいつの間にか、目の前の戦いを、心の中でそう評して見入っていた。
やがて、最後の首も飛び、キマイラはたった一人の剣士の前に膝を屈して、動かなくなる。切り札を失ったからか、周囲に残っていた帝国軍も途端に撤退を始めた。
生き残れた。その安堵にノクリスが脱力してへたり込むと、剣士がつとこちらを振り返った。そこで初めて、相手が長い茶髪をうなじのあたりでくくっている事、革鎧を持ってしても隠しきれない胸の膨らみがある事を認識する。
かの剣神は、剣女神であったのだ。
「生きてるな?」
予想していたより低い声で、彼女がノクリスに呼びかける。
「まだ召喚を行った魔族が諦めたとは限らない。足腰が無事なら後衛へ下がれ」
それだけ言い残すと、剣女神はやはり舞うように跳ねて、身を隠すのに――つまり召喚に――最適な、近場の森へと駆けてゆく。
「無事か」
同期の戦友が肩に手を置いて揺さぶった事で、ノクリスは自分がぼうっと彼女を見送っていたのに気づいて、現実に戻ってきた。
「今の剣士は……」
「ん、ああ」
魔物との戦いは同期も見ていただろう。ノクリスの問いを理解して、彼は噛み締めるようにその名を口にした。
「旧グランディア王国傭兵隊長の、テュアン・フリード様だよ。聖剣士アルフレッド様と並んで、エステル王女に剣術を教えた、白兵戦の天才さ」
天は二物を与えないと言うが、あの人は強くて美人だよな。
笑ってそう付け加える同期の言葉は、最早ノクリスの耳には入っていなかった。ただ、彼女の乱舞する戦い様の幻が、ひたすらに眼前で繰り返されている。
「……女神だ」
「あ、何か言ったか?」
怪訝そうに顔を覗き込んでくる同期には、首を振ることで返事とする。戦斧を地面に立て、それを支柱にして立ち上がりながら、ノクリスはぽつりと洩らすように言った。
「俺、得物を剣に変えようかな」
かの剣女神には到底届かない、憧れの域である。だが、彼女の乱舞は確実に、本人のあずかり知らぬところで、一人の戦士の命と心に影響を及ぼしたのであった。
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