上海狂詩曲

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 <香港>  99年間の貸借という法外な要求を出して大英帝国が清国から奪い取った島は、英国の東洋に於ける碇だ。其処には上海に入ってこない情報も在る。大戦を経ても、性懲りもなく大陸の東端で覇を競う欧州列強の動きを探るため、瑞垣は三月ばかり香港に渡っていたのだ。  囁かれる噂  隠された謀略  世の中は当に爆発的な勢いで、華やかに、豊かに、醜悪に膨張していく。  何処に行っても不安定で歪な世界。  そして、そんな場所でしか息が出来ぬ自分も。   嗚呼、さうだ、まるで此の街の様ではないか。  虚ろに微笑む女の幻影を振り払い、瑞垣は呟いた。 「香港にも随分と、軍の犬が居たな」 「陸軍ですか」 「両方や」  故国の軍部とて一枚岩ではない。陸海軍の不仲はあからさまであったし、其れ以上に政府と軍部の不協和音は耳障りだった。外から見れば、まったくもって愚かと言わざるを得ない。舵取りを誤れば国自体が危ういこの時代に、身内で揉めている場合ではないのに。  近頃の母国はといえば、奇跡的に露西亜に勝利し満州に進出してみたものの、無理を通せば道理が引っ込む。結局、露西亜との対立は激しくなるばかり。つい最近の大震災で受けた損失と喪失、財政や国際情勢を鑑みるに、母国のおかれている状況がはかばかしくないことは自明の理だった。  つらつらとよしなしごとを考えていた瑞垣に、そうだ、と野々村が顔を振り向けて来た。 「先頃の、アナキストの大杉が殺された事件、軍部は捜査を打ち切るようです」 「はあ?! 正気か?」 「大真面目です。別途、外務省が調査に動いているようですが」 「大杉の甥は亜米利加の市民権があるだろうが。馬鹿なことを……」  眉を顰め、苦虫を噛み潰したような顔になったところで、バタン!と大きな音を立ててドアが空いた。
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