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上海に来て最も意外だった事には、その寒さが挙げられるだろうか。
地理的には日本の九州、鹿児島とほぼ同緯度に位置する亜熱帯気候の街だ。しかし存外、冬の寒さは厳しい。大陸の山脈から吹き下ろす風の冷たさは、瑞垣の故郷の冬を凌ぐほどだ。
ために、夏は融けるような暑さだが、冬は相応に冷え込む。貪欲に発展を続ける街に吹く風はカラカラに乾き、急激な発展に伴い大量に舞う粉塵や大陸内部から届いた黄砂は厄介だった。
瑞垣は口の中に入った砂に、盛大に顔を顰める。
早足で雑踏をすり抜け、路面電車や荷車を追い越す。そうやって記者倶楽部に着くなり、被っていた黒いハンチング帽を取って、濃鼠のインバネスコートや靴に着いた埃や砂を念入りに叩き落とした。
「おや、ご無沙汰でしたね」
軽い声に振り向けば、後輩記者の涼しい顔が見えた。
「あら、野々村さん、お久しぶりね。あたしが居なくて寂しかったのかしら?」
「いいえ、全く。大変快適でした」
柔和な顔に微笑まれ、瑞垣は鋭く歯を見せた。
「はん、そいつはご丁寧にどうも」
「何処へいらしてたんですか?」
間髪入れぬ問いに直ぐには答えず、瑞垣は窓際のソファにどさりと身を投げ出す。高い天井で回るファンが、煤けた空気を申し訳程度にかき回していた。
「香港や」
「ああ」
したり顔で頷くライバル社の後輩に、コートと共に放り出した幾つかのタブロイド紙を顎先で示す。紙も印字も粗雑なものだが、此処では銀よりも貴重だ。野々村は受け取ると素早く広げて目を通す。
所属が違うとはいえ、この異国の地で同国人は相応の盟友だ。出して良い情報は共有し、恩を売り、義理を果たす。
それが生き残るために必要不可欠な規律だった。
「独逸の動きが焦臭い」
「同盟は破綻ですか?」
「仏蘭西の恫喝が役に立つかどうか」
「その前に伊太利亜かと思っていましたが」
「それはそうだろうな。あとどれ位保つか……厳しいな」
其の頃、欧州列強は小さな島の上で踊っていた。
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