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「こんにちは~」
「煩せえぞ、静かに入れ!」
「ああっ、みずがきさん、ご無事でしたかッ」
男はそう言って、ずり落ちたメガネを直しながらへらへらと笑う。
「なんや無事ってのは」
「いやいや、ひと月で戻って来るって話がさっぱり音沙汰ないもんですから、てっきり三途の川を渡ったかと」
「他人を勝手に殺すなや」
記者倶楽部に入ってきたのは、上海日日新聞の塩塚だった。
「まあ瑞垣さんのことですから無事だろうとは思ってましたよう。何なら、記者の商売に見切りをつけて、口八丁手八丁、満州辺りで馬賊を騙くらかして財を成しているかもとか」
「……褒めとらんな」
「ええ、まあ褒めてません」
「この野郎!」
と瑞垣が半身を起こしたところで、塩塚が「そこで讀賣の倉辻さんに饅頭もらったんです」と言い出して、野々村が茶を煎れようと取りなした。
塩塚は野々村より五つ下だったか、帝大出らしからぬ得体が知れないところのある男だが、支那語は勿論、英語、仏語、独語、露語にも通じている。何処にルウトがあるのか、絶妙な情報を入手してくることもあり侮れない。
尚、瑞垣の軽口に対抗できる人材として倶楽部では重宝されてもいる。
塩塚が持ってきた饅頭は胡桃の餡入りのなかなかの美味で、瑞垣の機嫌が逆方向に振れた処で、野々村が助け船を出した。どちらへの助けかは判じ得ないが。
「そうだ、塩塚君、例の資料はあったかい?」
「あ、在りました! 李さんとこの蔵に仕舞われてたとかで」
「有り難う」
塩塚が差し出す風呂敷包みを、野々村はにこりと笑って受け取った。
「しかし、よくぞ残ってましたね、西太后のお召し列車の設計図なんか」
「大英帝国の矜持だろうね。スウィントン生まれの鋼鉄の公爵」
瑞垣は其れを横目で眺めつつ、一旦、思考を断ち切る。慣れない街での生活は入り込む情報量が膨大で、上手く切り換えねば息をすることも覚束ぬ。
意識的に、密かに深く呼吸する。
香港での暮らしは目まぐるしく、異郷とはいえ、この魔都でさえも慕わしく感じるのが瑞垣にも不思議だった。
天井でぎこちなく回るファンの回転を数える。途中からは瞼を閉じて、その残像を数えていた。
一回、二回、三回…
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