上海狂詩曲

5/11
前へ
/11ページ
次へ
「そういえば、瑞垣さん、何時戻ったんですか?」  出し抜けに塩塚に問われて、瑞垣は片目を開ける。口を開くのがやや億劫だったが、後輩を無視するほど大人げなくはなかった。 「三日前やな」 「あれ? そうなんですか。もっと前でなく?」 「何でお前に嘘吐かなならんのや」 「じゃあ、昨日、シェロンに行きませんでした?」  近所の外国人向けカフェーである。夜は酒も出す。  瑞垣が偶に足を向ける店だが、各国の記者倶楽部が集まるこの界隈では、記者達の情報交換の場も兼ねて常に盛況であった。取り分け英国と亜米利加の客が多く、サロンの如く書籍や種々の遊戯も用意されている。  彼処の空気も久しく吸ってないな、と思い返しながら、瑞垣は言下に否定する。 「行ってない」 「ええー? 本当ですか?」 「何や、その疑いの目は」  瑞垣がまた顔を顰めると、だって、と塩塚は不服そうに言い募る。 「チェスが滅法強い日本人が居るって噂になってるんで、てっきり瑞垣さんかと」  はあ?  と思わず間が抜けた声が出た。 「嗚呼、それは私も聞いたな。確かに瑞垣さんのことかと思わないでもなかった」  野々村の言葉に、塩塚の声も勢いづく。 「そうなんですよ。将棋ならともかく、日本人でチェスをやる人、なかなか居ないですからね」 「それに相当強いでしょう、瑞垣さん。トーマスから飲み代巻き上げてたの、見ましたよ」 「人聞きの悪いこと言うな。アレはあいつが奢る言うたんや」  そう、瑞垣のチェスの腕前は確かだった。シェロンでは密かに他国の記者達と対局し、上手くあしらってはその日の飲み代を奢らせている。取り分け何事にも大ざっぱで楽天家の亜米利加人記者トーマスは、大変良いカモだ。  しかしそれも知る人ぞ知る、といったものであったし、勿論、他の日本人と指したことはない。  ……最後に日本人と盤を挟んだのは、十年近く前になるだろうか。 「チェス仲間とか居ないんですか、この近辺に」 「居ねえよ」 「じゃあ他に心当たりとか」 「阿呆か、知らんわ」 「ええええ~、連れないですねえ。ああいう遊戯は相手を選ぶもんじゃないんですか?」 「そうでもない。大体、将棋を囓ってればそう難しいもんでもないわ、誰でも出来るやろ」 「でもー、本場英国のインテリゲンチアに引けを取らないんですよう? なかなか出来る事でもないでしょう」  煩せえよ、と再び声を荒げた瑞垣の脳裏に一瞬、閃いたが、直ぐに打ち消す。  そんなことは、有り得ない。  其れこそ妄想の類だと、瑞垣は脳裏から振り払った。だからこそ、次に野々村が持ち出した話題の衝撃は余りに大きかった。 「そうでした、瑞垣さんは確か、京都帝大でしたよね?」 「ああ? 卒業してへんで」 「いいですよ、細かいことは。つい先頃、新しく来た外務省の書記官も京都卒だそうですよ」  一瞬、呼吸が止まった。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

10人が本棚に入れています
本棚に追加