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「そういえば、瑞垣さん、何時戻ったんですか?」
出し抜けに塩塚に問われて、瑞垣は片目を開ける。口を開くのがやや億劫だったが、後輩を無視するほど大人げなくはなかった。
「三日前やな」
「あれ? そうなんですか。もっと前でなく?」
「何でお前に嘘吐かなならんのや」
「じゃあ、昨日、シェロンに行きませんでした?」
近所の外国人向けカフェーである。夜は酒も出す。
瑞垣が偶に足を向ける店だが、各国の記者倶楽部が集まるこの界隈では、記者達の情報交換の場も兼ねて常に盛況であった。取り分け英国と亜米利加の客が多く、サロンの如く書籍や種々の遊戯も用意されている。
彼処の空気も久しく吸ってないな、と思い返しながら、瑞垣は言下に否定する。
「行ってない」
「ええー? 本当ですか?」
「何や、その疑いの目は」
瑞垣がまた顔を顰めると、だって、と塩塚は不服そうに言い募る。
「チェスが滅法強い日本人が居るって噂になってるんで、てっきり瑞垣さんかと」
はあ?
と思わず間が抜けた声が出た。
「嗚呼、それは私も聞いたな。確かに瑞垣さんのことかと思わないでもなかった」
野々村の言葉に、塩塚の声も勢いづく。
「そうなんですよ。将棋ならともかく、日本人でチェスをやる人、なかなか居ないですからね」
「それに相当強いでしょう、瑞垣さん。トーマスから飲み代巻き上げてたの、見ましたよ」
「人聞きの悪いこと言うな。アレはあいつが奢る言うたんや」
そう、瑞垣のチェスの腕前は確かだった。シェロンでは密かに他国の記者達と対局し、上手くあしらってはその日の飲み代を奢らせている。取り分け何事にも大ざっぱで楽天家の亜米利加人記者トーマスは、大変良いカモだ。
しかしそれも知る人ぞ知る、といったものであったし、勿論、他の日本人と指したことはない。
……最後に日本人と盤を挟んだのは、十年近く前になるだろうか。
「チェス仲間とか居ないんですか、この近辺に」
「居ねえよ」
「じゃあ他に心当たりとか」
「阿呆か、知らんわ」
「ええええ~、連れないですねえ。ああいう遊戯は相手を選ぶもんじゃないんですか?」
「そうでもない。大体、将棋を囓ってればそう難しいもんでもないわ、誰でも出来るやろ」
「でもー、本場英国のインテリゲンチアに引けを取らないんですよう? なかなか出来る事でもないでしょう」
煩せえよ、と再び声を荒げた瑞垣の脳裏に一瞬、閃いたが、直ぐに打ち消す。
そんなことは、有り得ない。
其れこそ妄想の類だと、瑞垣は脳裏から振り払った。だからこそ、次に野々村が持ち出した話題の衝撃は余りに大きかった。
「そうでした、瑞垣さんは確か、京都帝大でしたよね?」
「ああ? 卒業してへんで」
「いいですよ、細かいことは。つい先頃、新しく来た外務省の書記官も京都卒だそうですよ」
一瞬、呼吸が止まった。
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