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訪問者
窓から血の色をした夕陽が差し込んで、傷んだ畳を照らしている。築四十年を経過した木造アパートの一室で、僕は力なく壁に背を預けていた。
ひどく体が重い。何の気力も湧かず、食事を摂るのも億劫だ。そもそも、最後に飯を食べたのはいつだったっけ?
“うつ病”。町医者が下した診断だ。原因は不明だが、とりあえず貰った薬だけは飲むようにしている。しかし、症状は一向に良くならず悪化を辿る一方だ。
突然、呼び鈴の音が静寂を打ち破る。しばらく放っておいたが、あまりのしつこさに根負けして僕は重たい体を持ち上げた。
薄く扉を開けると見知らぬ若い女が立っていた。その端正な顔立ちに見覚えがある気がしたが、はっきりとは思い出せない。
「出雲国男さんですね。私、多田武の妹です。美玲といいます」
「多田武……、ああ、多田さんの?」
その名前だけは忘れるはずもない。多田さんは僕の戦友だった。
あれは今から三年前。急速に発達した低気圧により、猿尾山は突如として大雪に襲われた。当時大学生だった僕は、知識もないのに無謀にも単独登山を敢行し、見事にルートを見失った。降り積もった雪が強風で舞い上がり、目に見える世界は全てが白一色に閉ざされた。僕は雪の中を散々彷徨った挙句、幸運にも一軒の山小屋を見つけた。
その朽ちかけた山小屋にはすでに二人の先客がいた。多田武と丸形肇だ。多田さんは20代後半の会社員、丸形さんは50を過ぎた教員で、二人が遭難した理由も僕と同様、初歩的な天候判断のミスだった。僕たちは木が腐って傾ききかけたその小さな山小屋で、吹雪が治まるのを待ち続けた。幸いにも、山小屋には薪ストーブが設置されており、非常食としての缶詰がわずかに残されていた。かなり古い食料だったが、僕たちは少しずつそれらを分け合って何とか命を繋いだ。
捜索隊により救助されたのは、遭難から20日以上経ってからだった。三人の利他的な協力関係の甲斐あって、極度の栄養失調に陥ることも無く、僕たちは奇跡的に生還を果たしたのだ。
「汚い部屋ですけど、どうぞ」
僕は多田さんの妹を散らかった室内に招き入れると、急いでコーヒーを沸かした。
「今日はどういったご用件で?」
「出雲さんの様子が気になったものですから。突然、不躾な質問をしますが…、出雲さん、最近何か体調におかしなところは無いですか?」
突然の問いかけに虚を突かれる。
「おかしなところって?」
「食欲不振、抑うつ傾向、記憶の曖昧さ……、何かそんな症状に思い当たりませんか?」
僕は全くもって動転した。指摘された症状はまさに今、僕が患っているものだ。
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