天野

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 この日、俺は『第一通り』駅を降りると、そのまま有楽街には向かわず、静岡銀行のある田町通りを南に歩き、ぐるりと回るようにして、有楽街に入った。  人の流れと、飲食店を見る為だ。  人の数は少ないものの、シャッターが閉まってる店は少ない。『閉店』『一時休業』のポスターが貼られた店もあるが、昨夜の夢のような閑散とした感じは無い。  北から有楽街に入り、奇声を上げる青髪の若者を見て、カラオケ屋のある十字路を東に曲がった。  次郎も開いていた。  安堵してしつつ、木製のドアを開く。長髪の大将が挨拶をする。  「いらっしゃい。…あ、スーさん?」  「や、やってるね。あ、安心した、たよ」  「…は?」  大将は俺の言う意味が分からず困惑していたが、笑って応えた。  俺は何故か、安堵した。  俺はテレビの見えるカウンター席に座って、適当に注文をした。  俺の、今までの状況を思い返そう。  俺は、今から約9年ほど前に脳腫瘍を患った。  大脳と小脳の間に出来たこの厄介な腫瘍は、二回の手術で除去されたが、俺から滑舌と言葉を奪った。以来、理学療法で多少改善されたが、俺は会話が酷く苦手になった。言葉が少し出しにくくなった。  腫瘍が奪っていったのは、それだけでは無い。  仕事と恋人をも奪った。  俺は当時、勤めていた某公的保険事務所を辞め 、さらには交際中の恋人と別れた。  …年金事務所を辞めたのは俺からであり、恋人に別れを告げたのも俺からだから、『腫瘍が奪った』は正しくはないが…。  職を失った(手放した)俺は、退院後、浜松市内(時には市外)の様々な仕事の求人に応募し、ことごとく落ちた。  全く誰も俺を相手にしなかった。  それはそうだ。  30半ばの“病み上がり”の男を雇う会社はそうそうは無い。  金が無くなり、いろんなバイトをした。複数の派遣会社に登録し、日雇いなど、いろんな職場を巡った。  ここ数年は、高校野球の有望な選手を救ったり、離散した一家を結びつけたり、その原因になったおかしな“カウンセラー”を潰したり、大学の研究室で悪どい教授に“操られて”いた事務員の女を“お節介”に助けたりした。  また、市内の倉庫で働き、そこで揉めたりした。  DV騒動に巻き込まれたり、最近では元カノの為に半グレと争ったりした。  現在は、自宅近くの病院で清掃のバイトをしている、40才を越えてもフリーターとして働いている情けない“おじさん”だ。  俺みたいのを“下流”というのだろう。否定は出来ない。  今日も昼間、その病院で働いていた。  俺の年収は、200万にも届くかどうかという程度であり、趣味と言えば、こうやって浜松の街中を飲み歩くか、釣れない魚釣りと、子供の頃に出来なかったレトロゲームをやるくらいである。  プロレス観戦も趣味だが、最近は行っていない。なので過去のプロレス名(迷)言をネットなどでよく観ている。
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