キモチのカタチ

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キモチのカタチ

 私は彼を愛している。  それは世界の誰よりも。  世界に存在するどんな人より、物よりも。  私の一生なんかじゃ、到底この愛を伝えきれないくらい。この愛は深く、大きい。  いくらそばにいても足りはしない。  何度抱き合っても、何度肌の温もりを感じても、何度愛を囁きあっても、私の彼への愛は、とどまるどころか、更に大きさを増す。  彼の名前? そんなのどうでもいいじゃない。  本当は、いい男具合が溢れ出している彼の名前の素晴らしさについて、蕩々と語りたいところだけれど、今日はやめておくわ。  今日話したいのは、私だけが知っている、彼の秘密。  彼は寡黙だ。  家で同じ部屋にいるときでも、彼はほとんど喋らない。  彼の仕事は、何かの研究みたいで、いつもいつも、食事のときも、お風呂のときも、分厚い紙の束や、パソコンを眺めながらウンウンと唸っている。24時間、365日ずっと。  なんの研究をしているのかは、まったく興味がないから、私は知らない。  とはいえ、そんな生活だからか、彼はちっとも恋人の私を構ってくれない。昔は寂しさのあまり壁に爪を立てて彼の気を引こうとしたけれど、そんなはしたないことはすぐにやめた。私は上品な女だもの。  それに彼は、私のそういった行為に気付きすらしなかった。そのときは彼の顔に爪を立ててやろうかと思ったけど、すんでのところで堪えたわ。  それに、彼の綺麗な顔に傷がついたら大変だもの。  今日も御多分に洩れず、私は放っておかれている。 でも彼とは心で繋がっているから寂しくなんかない。  私は誰よりも彼のことをわかっている。  彼だって私を愛している。ただ、気持ちを伝えるのが不器用なだけなのだ。  一つのことに集中すると周りが全く見えなくなる。それほど彼の集中力は凄まじい。私はそんな集中する彼の背中を一日中、うっとりした目で眺めるの。  今日もそんな一日。  私たちの間でいつもと変わらない、ありふれた日常の一コマ。  私はふと気付く。  そういえば彼、もう三日もろくに言葉を発していない。それに、いつもは心地よく感じる沈黙が、今日は少しだけ重苦しく感じる。無口には慣れているけど、さすがに三日も一言も喋っていないとなると、少し心配になってくる。  彼の表情からはなにも読めない。彼は今一体なにを考えているのだろう?   そんなことを考えているうちに、あっという間に空に闇が落ちる。  窓から彼方に首都高が見える。車のライトが流星群のように現れては消える。私がライトの流星群に見惚れていると、静かに玄関のドアが閉まる音がする。彼が散歩に出ていったのだ。  夜の散歩は彼の日課だった。  彼は仕事の研究が行き詰まったとき、或いは何か新しいアイデアが思い付いたとき、夜の街を歩く。  以前、何故そんなことをするのか彼が話してくれたことがある。  彼曰く、夜の街を歩くと頭の中が整理されるらしい。昼間は視覚情報が多すぎて、ただでさえ散らかっている頭の中が余計に散らかってしまうのだと。  だから歩くのは夜がいいのだと彼は独り言のように呟いていた。外を歩くときに大した理由なんてない私には、この話に心底驚いた記憶がある。  私は閉まったドアに向かい、いってらっしゃいと声をかけた。  勿論、既に部屋を出た彼に、私の声は届くはずもない。それでも行ってらっしゃいと言うのは私の決め事だった。愛する人にはいつだって声をかけ続けていたいもの。  彼の中では、私は彼の帰りを甲斐甲斐しく待つ良い女なのだろう。  けれど、本当はそうじゃない。  私は自由な女。家でじっと彼の帰りを待っていることなんて、出来やしない。  私は手早く準備を済ますと、そっと家を出る。  私はいつも彼の散歩にこっそりとついて行っていた。つまりは尾行である。あまり上品な行為ではないけれど、こればかりはやめられない。私は彼の全てを知りたいのだから。  好奇心には抗えない。そう、たとえこれが原因で命を落としたとしても。  私の尾行には主に二つの理由がある。一つは、彼はいつもボーッとしているから、急な事故や強盗に巻き込まれないようにするため。 もう一つは、彼のキモチのカタチを知るためだ。  特に今回のような、数日間一言も発さないケースは珍しい。彼はため込みやすいタイプの人間だから、キモチのカタチを知り、適切に対処してあげないといけない。   それが恋人である私の役目なのだ。  家を出た私は、景色を楽しみながら、しばらく道なりにゆっくり歩いた。彼の姿は見当たらない。でも心配する必要も、焦る必要もない。彼の散歩コースはいつも同じ。その気になれば数秒で追いつくことが出来る。  夜風が気持ちいい。そして月も綺麗だった。  私も夜は好きだった。暗い方が明るいときより、世界がはっきりと見えるからだ。  私は彼の歩いた道をなぞりながら、彼のことを考える。  彼は私のキモチを全てわかってくれる。私たちが初めて出会ったその日から彼は私が望むものを全て与えてくれた。食事も家も、愛も、何もかも。それはもう魔法を使っているのではないのかと疑ってしまうくらい彼は私のキモチをわかってくれている。  だから私も彼のキモチを知りたい。理解したい。同じ思考を辿りたい。  知っても知ってもまだ足りない。全然足りない。  きっと私は彼より早く死んでしまうのだろう。悲しくなんかない。寂しくなんかない。虚しくなんかない。それが私の天命なのだとしたら私はそれを受け入れる。  だからこそ、生きているうちに彼のことをもっと知りたい。知り尽くしてやりたい。  私はそう考えながら歩を進め、彼を見つける。  彼の散歩はとても長い。三時間歩きっぱなしなんてこともザラだ。同じコースを行ったり来たり、来たり行ったり。  更に散歩中の彼の集中力は凄まじい。以前、彼のすぐ後ろを歩いてみたことがある。彼は気づかなかった。その次は、少しはしたないけれど、塀に登って彼の傍を歩いてみた。それでも彼は気づかなかった。  他の人にはたくさん気付かれて、声までかけられて、恥ずかしい思いをしたわ。もちろん私は彼以外に興味がないから全部無視したけど。  彼は一度集中すると周りが見えなくなる。だから車や自転車に轢かれそうになったのも一度や二度ではない。  だからその度に私は彼を助けていた。彼を轢きそうな自転車や車をいち早く察知しては、私はそれらの前に飛び出すのだ。すると自転車や車は驚き、すごい勢いで私を避けていく。これは、あんなものに轢かれるほどノロマじゃない私だからこそ出来る芸当ね。  静かな夜が包む街の中、彼と私の歩く小さい音だけがゆっくり闇に溶けていく。  私は彼の尾行を始めたきっかけを思い出していた。  最初は単純に彼のそばにいたいだけだった。彼の近くにいれるだけで幸せだった。本当にただそれだけだった。理由なんて無いに等しかった。  理由のない尾行に理由が付いたのは、彼が不機嫌でいるときと、上機嫌でいるときの些細な違いに気付いたときだった。彼は基本無表情だから感情が表に出ない。私以外には彼の機嫌の変化なんてわかりはしないだろう。  しかも彼の感情の変化は散歩に出る前と後で如実に違っていた。  その日から彼の散歩について行き、辛抱強く観察し続けた結果、私はある法則を発見した。抱えている問題が解決しなかったとき彼は不機嫌になり。問題に解決の糸口が見えたとき、彼は上機嫌になるという法則を。  私は散歩中に、彼の心になにが起きているのかを知りたくなった。私は彼のキモチのが知りたかった。  そこから彼のキモチを知るという、理由のある尾行が始まったのだった。  そして、何度目かの尾行の時、ついに私は彼のキモチを知ることとなる。より正確に言えば見ることとなる。  彼のキモチは、彼が歩いた道にカタチとなって現れていたのだ。  そこまで思い出した私は、今日のメインイベントにとりかかる。  そう、彼のキモチを見ることだ。  私は彼が歩いたルートを詳細に記憶して、脳内にある街の地図と照合する。  すると、ある形が浮かび上がってくる。俯瞰して見ると、それは一筆書きで描いたような大輪の花だった。大輪の花の線の一本一本はまるで波形のように揺らいでいた。これは彼の心のあり様を表している。  恐れ・不安・虚無・絶望・狂気・そして、僅かな希望  同じ道を歩いても、道の全く同じ箇所は歩かない。感情は微細な揺らぎとなり、道筋は感情の波形、及び感情カタチを明確に表す。  私は彼のキモチのカタチを確認すると、ほっと息を吐き、安心する。  大輪の花のカタチを彼が歩き描く日は。彼の中の問題が解決した証拠だった。  私は彼のキモチを丁寧になぞって歩く。  毎回この瞬間に私の心は、えも言われぬ幸福感に包まれる。  それはまるで彼の感情に出会えた気がするから。  彼の感情の波形にピタリと重なったように感じるから。  彼と一つになれたように感じるから。   もう今日は私に出来る事は何もない。  満足した私は、まだまだ歩き続ける彼を尻目に一足先に家路へ向かう。もう車も自転車もすっかり見当たらなかった。これなら彼も無事に帰ってこれるだろう。もういい大人なんだし。  それに、歩きっぱなしで、流石の私もいい加減疲れたわ。  私はこっそりと部屋に戻り、まるで何事もなかったかのように部屋の隅に座り、小さく欠伸をする。  余談だけれど、彼の中の問題が解決しなかった日、彼の歩き描くカタチはそれはそれは恐ろしい骸骨のカタチになる。このカタチが歩き描かれた日は怖くて話しかけることも出来ない。  そう。私の言う、恋人としての対処とは、上機嫌だろうが不機嫌だろうがすることは一緒。  結局「何もしないでただ寄り添う」に行きつくのだ。  私はただ彼の歩き描くキモチのカタチを波形を見たいだけなの。  私は我儘な女だから、したいことしかしたくないのよ。  これが、私だけが知っている彼も知らない彼の秘密。  私だけの、彼のキモチのカタチ。  もうすぐ彼は上機嫌で帰宅するだろう。  そしてドアを開けてただいまと言い、私の名を呼ぶだろう。  そして私はこう言うのだ。おかえりなさいと。  そうだ、しばらく放置されたことに文句を言ってやらなきゃ。  最後に一つ言わせてもらうわ。  あなたたちが思っているより、あなたたちは見られている。観察されている。知られている。それも、ヒトじゃなくて、ヒト以外、つまり、私たちみたいな存在にね。同じより、違うカタチの方が、お互いを深く理解できるとは思わない?  だって言葉なんていう不完全な隔たりが存在しないんだもの。  私の持論よ。  ほら、そんなことを話している内に彼が帰ってきた。 「ただいま。ミーコ」 にゃあ。
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