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 誰かに呼ばれたような気がして、人波の中で思わず足を止めた。  人々は岩を避けながら山を下る渓流のように僕をかわしながら、ぬるぬると流れていく。  ごった返しの大通りで自分を呼ぶ声だけを聞き分けられる能力が自分にあるのだろうか?こんな場所で知り合いと出会うことがあるのだろうか?いや、そもそも、僕に声を掛けようと思う人物が存在するのだろうか。いたとしたら、どんな人なんだろう?  分からない。分からない。分からないから、振り返る。  無関心な人波の中、確かに僕の方を見つめる男の姿があった。目が合うと、彼はぱっと目を輝かせ、子どものように大きな動作で手を挙げる。 「やあ、久しぶりだな!」  そう言うやいなや、あっという間に人の中に沈んでいった彼の顔は、僕の知らないものだった。だが、知らないということは助けないことの理由にはならない。人を掻き分け、腕まくりしたシャツを掴むと、人の流れに乗ってゆっくりと歩き出した。彼はようやくペースを掴み、自分の足でまともに歩き出す。 「助かったよ、相変わらずお人好しだな」  男は眉を下げてはにかんだ。いや、違う。どちらかというと、知らないやつだったから助けたんだ。そう僕が言う前に、彼は感慨深そうに呟く。 「やっぱり、逢坂か。見間違いかと思ったけど、やっぱりそうだった」  名前を呼ばれた瞬間、名刺の入った鞄を持つ手にぎゅっと力が入った。名乗らなくても相手が自分のことを知っているという懐かしい感覚に、わずかに心が緩む。 「……お久しぶりです」 「なんだ、久しぶりだからって敬語はよしてくれよ――な、この後時間あるか?ちょっとその辺で話そうや」    誰か分からないから敬語で話してみたなんて言う間もないうちに、強引に近くの店に連れ込まれる。彼がくいっと指さしたその看板は、僕の知らない珈琲店のものだった。もっとも、間が与えられたところでそんな失礼なことはいえないよなぁなんてことを、入店ベルを聞きながら考える。  平日午前11時、春先の温かな原宿での出来事である。  
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