その瞳が望むもの

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 翌朝、ラヴィソンは軽薄で下品な亭主の見立てどおり見事に快復した。騎士はそれを聞いて、朝食を食べたら出立しましょうと言う。ラヴィソンは頷き、出された朝食を全部食べて薬を飲み、二日ぶりに旅装と外套を着込む。痛かった節々は問題なく、筋肉の強張りも消え、身体がずいぶんと軽くなっていた。     「殿下。大変恐縮ではございますが、この街を離れるまでは私の無礼な振る舞いをお許しください」   「よい。私には兄がいる。弟のふりは上手である」   「はい。では、参りましょう」      粗末な木のドアを開け、騎士が恭しく頭を下げると、ラヴィソンはこくりと頷いて部屋を出る。部屋の中しか知らないラヴィソンにとって、部屋を出たすぐそこにある急勾配の木の階段は、ちょっとした度胸試しのように思えた。顔の半分は既に騎士によって布が巻かれ、頭からすっぽりと外套のフードも被っている。狭い視野の中で足元を見つめながら慎重に降り、それを二度繰り返すと階段は終わった。ラヴィソンはそこを泊まった部屋よりはましだけれど小さな部屋だと思った。本当は、宿の受付カウンタのある一階全部であったのだけれど。  二人が降りてきたのを見て、給仕をしていた亭主が軽く手を挙げて近寄ってくる。衝立のない食堂部分では、旅の途中といった風情の男が二人、朝食を食べていた。  騎士はラヴィソンを背中に庇う。旅装のすべてと馬具を担いで、騎士はいつも以上に大柄に見えた。     「やあ、弟君、歩けるくらい元気になってよかったね」   「話しかけるな」   「いいだろ、別に。飯ちゃんと食って偉かったな。野菜を残さないのはすごく偉いぞ」   「話しかけるなと言っている!貴様、口を縫われたいのか」   「褒めてんじゃん、あんたの大事なかわいいかわいい弟君をさぁ!」   「金は払った。世話になったな」   「あーあーあーちょっと待て」      亭主はさっさと出て行こうと外套の裾を翻す騎士を引き止めた。そして、カウンタの内側から一抱えほどの袋を取り出して差し出す。騎士はピクリとも動かず、目元だけが露出した顔を亭主に向ける。     「……あれだ。旅慣れない小さな弟君を連れて、道中大変だろうから。荷物になるけど、持っていけ」      それでも動かない騎士に、亭主は嫌そうに顔を顰めて中身をいくつか取り出してみせる。野営にあると便利なものや、旅に必要な消耗品や、イモリの黒焼きと大きく殴り書きされた小袋……多分薬だろう。袋の具合から見て、まだまだ色々入っているらしい。     「ずいぶん吹っかけたのに、綺麗に支払ってくれちゃって、そのお礼だ」   「…………」   「あって困るものじゃない。もちろん、知っているだろうが」   「ああ」   「馬を探せなかったしな」   「いや」   「国境を越えるのなら、一番東寄りの道を行け。通行証はあるんだろうな」   「ああ」   「東なら、多分咎められずに通れるはずだが、もしも何か言われたらこれを届けると言え」      亭主は袋の奥のほうから、薄汚れた小さな布切れを引っ張り出した。見覚えのある意匠が織り込まれている。隣国の軍旗の一部だろうか。亭主の風体もこの宿の作りも確かに隣国のものであろうとは思っていたけれど、軍関係者であったとは驚きだった。騎士の目が、更に鋭くなる。亭主は肩をすくめて、そんなに怖い顔をするなよと笑う。     「あるものは便利に使えばいい。これの出所がどこであれ、俺が誰であれ、見せるだけで弟君の身が護られるならいいと思うが?」   「……」   「護られている子だ。こんなものがなくとも、きっと旅はうまくいくだろう。だが」   「もういい。……ありがたくいただく」   「よろしい」      亭主は不遜に胸を張って、騎士にその大きな袋を押し付けた。両手が塞がることに一瞬躊躇ったけれど、騎士はそれを受け取った。     「気をつけて。うちの泊り客が野垂れ死にしては目覚めが悪い」   「ああ」   「えーと、弟君」   「かまうな」   「一言だけ!な!一言だけだって!」   「うるさい黙れ見ようとするな退けこの」   「許す。申せ」      騎士はラヴィソンが言葉を発したのでドキリとした。凛としたその声は、あまりにも清い。咄嗟に食堂のほうへ視線を走らせたけれど、幸いにも客はいなくなっていた。  亭主はラヴィソンの物言いにきょとんとして、それでもよし、と一言呟いてから騎士を押しのける。やはり只者ではないのだろう、騎士はあろうことかその押しに堪えきれずに一歩横へずらされてしまった。陰から現れたラヴィソンに、亭主は少し背を丸めるようにして近づき、自分の太ももに両手をついてラヴィソンに視線を合わせる。騎士は瞬時に体勢を立て直して、亭主を肩で突き飛ばそうとした。それを止めたのはやはりラヴィソンだった。     「お兄ちゃんの言うことを聞いて、もし具合が悪くなったら薬を飲むんだ。約束できるかい?」   「……うむ」   「辛いときは我慢してはいけない。無理をしていいことなど何もないからな」   「……覚えておこう」   「いい子だ。好き嫌いがないところも気に入ったよ」   「好き嫌いなど、してはいけない」   「その通り。偉いな。道中気をつけな。それから……」      亭主は一瞬言い淀み、憤怒の目で自分を睨みつける騎士を見た。そして、ラヴィソンに視線を戻し、少し赤い頬をして、一つ咳払いをする。     「あー……あれだ。俺のこと、お、お兄ちゃんって思っていいから。うん。なんか、実際そんな感じだし?」   「どんな感じだ、このボケ!」      怒りに堪えかねた騎士は亭主を思い切り蹴り飛ばし、ラヴィソンを促してさっさと宿を出た。前庭にいた赤毛の馬は二人を見て、遅かったねとでも言うように前足の蹄を鳴らしてみせる。騎士は縄をほどき、ラヴィソンをその背に跨らせて轡を取った。次の街までの地図は頭に入っている。明日の夕方には着くだろう。幸い尻は傷めずに済んだのだし。     「さあ、行こう。頼むぞ」      騎士は赤毛の馬に話しかけ、重い足音をさせながら歩き出した。騎士の肩には長年使い込んだ大事な馬具と旅装の大半と亭主からの袋が載っている。しかし、足音はともかくその足取りは軽快であった。    騎士は明け切らない朝靄漂う薄暗い道を、最初にここへ来たのと同じように街中へ入り込むことを避けて郊外へ向かう。人目を避けるにはそれが最善だと思ったし、もしかしたらという希望もあった。黙々と歩き、小高い丘を登る。ふり返れば眼下に先ほどまでいた街が見えるその場所は、騎士が愛馬を放した林だった。立ち止まり、周囲を見渡すが物音一つしないし動物の気配はない。  だろうな、と騎士は即座に未練を切り捨て、背中の荷物を揺すり上げると、馬上の尊い方に声をかける。     「殿下。ここから二日ほどで次の街に出ます。道中、森はなく、もしかしたら他の旅の者とすれ違うやも知れません。どうぞお気をつけください」   「……降りる」   「え?」      ラヴィソンは騎士の手を借りず、ひらりと軽やかに地に降りた。騎士は驚き、慌てて手を差し出したけれど何の役にも立たなかった。     「殿下、いかがされましたか。鞍や鐙の具合が悪うございましたか」   「ここであの馬を放したか」   「……は」   「探す」   「え!?」      ラヴィソンはキョロキョロしながら、恐々と薄暗い林の中へ入っていく。騎士はそれを追いかけながら止め、赤毛の馬はパッカパッカと楽しげについてくる。     「お待ちください、殿下、ラヴィソン殿下。探すとは、あの馬をでございますか」   「さようである」   「お話申し上げましたとおり、あれは山育ちの馬でございます。気性は穏やかですが、自然の好きな馬です。既に遠くへ行っておりましょう」   「放すときに、何か言わなかったのか」   「……待っていて欲しいと、言いましたが」   「では、待っているであろう。探す」   「しかし!」 「では、私一人でよい」      ラヴィソンはぎゅっと拳を固めることで自分を鼓舞して、どんどん林の奥へ入っていく。朝陽のまだ届かないそこは暗く、ラヴィソンにとっては大冒険であった。そして、探すとはどうすればいいだろうかと考えた。まったくもって、名前をつけていなかった騎士の間抜けさに呆れる思いだった。     「おーい……」      ラヴィソンは小さく、暗い林の奥にそう呼びかけてみた。名がないのだから仕方がない。湿度の高いひんやりとした空気の中で、ラヴィソンのその声は響くことなく溶けていく。そこでラヴィソンはきゅっと形のいい唇を噛み、腹と拳に力をこめた。     「おーい!!」      今度は僅かに響いた気がした。ラヴィソンはそこから延々と、おーいと声をかけながらうろうろと歩き回った。精一杯大きな声を出し、一生懸命辺りの様子を窺う。騎士はもう止めはしなかったけれど、陽が高くなっていくにつれて、ラヴィソンの声が誰かに聞かれて何事かと寄ってこられては困ると焦っていた。赤毛の馬は、何気なくラヴィソンを危ない木の根や滑る落ち葉の重なりから庇いながらも機嫌良さげに散歩の態だ。  少しずつ、太陽が高くなっていく。それでも足元には薄闇が残る林の奥で、ラヴィソンは生まれて初めてと言ってもいいくらいの大きな声を、必死に振り絞る。喉が痛い。騎士は何も言わないけれど、ガチャガチャドスドスと重たそうな音を立てながらついてくる。  あの馬が、騎士の言いつけを守らないということが考えられなかった。それに、信頼していると言ったあの馬を、簡単に他の馬に挿げ替えるということが許せなかった。代わりはいくらでもいるという言外の騎士の主張は受け入れかねる。だけど、こんなに探しているのにいないのなら、本当にもう、この辺りにはいないのかもしれない。ラヴィソンは、もしそうなら騎士の不徳の致すところであると思った。馬に見捨てられるなど、騎士としては失格ではないのか。     「あっ」      ラヴィソンが息を荒げ、プンプン怒りながらも馬を探し続けていたら、周囲をうろついていた赤毛の馬が突然走り出した。ラヴィソンと騎士は驚いて、その赤毛の馬の後を追った。少し拓けた、小さな池のあるその場所に、騎士の愛馬が佇んでいた。     「いた!」      ラヴィソンは嬉しくて手を叩き、疲れも忘れてその馬に走りよる。騎士の馬はそんなラヴィソンに頷くように頭を下げて、鼻面を寄せた。ラヴィソンはどうしようかと思案し、恐る恐る、その鼻面を撫でてやった。冷えた手に、そのぬくもりはひどく優しく思えた。     「殿下……」   「見よ。やはりこの馬は賢い。ちゃんと待っていた。きっと好き嫌いもしない、偉い馬である」   「は」   「悪い者に見つからぬよう、隠れていたのだ。大変賢明である」    騎士はその場に片膝をつき、握った片手を地面について深く深く頭をたれた。早く目的地へ、できるだけ目立たないようにと焦るあまりに、自分の愛馬を見捨てて先を急ごうとした自分を恥じる。この馬が、自分の言いつけを守らないことなどないとわかっていたはずなのに。この馬がいなければ、どんどん険しくなるこの旅路を乗り越えることは難しいのに。  そして、何の興味も抱かないと思っていた第三王子殿下が、こんなに自分の馬に愛着を持っていることが意外だった。まさかその美しい手で、馬を撫でるとは思いもしなかった。     「何もかも、殿下のおっしゃるとおりでございます。私の浅薄で軽率な行動をお許しください」   「うむ。この度はよい」      ラヴィソンは、とっても疲れたけれど、この馬を見つけられたことが本当に嬉しくて上機嫌だった。珍しく頬がゆるみ顔がほころんで笑みが浮かぶけれど、それを見つめるのは騎士の愛馬だけで、お手柄の赤毛の馬は、騎士の馬の尻しか見ていない。     「……では、名をやろう」   「え!?」   「この馬に名を」   「は」      王家の人間から名を授かるなど、考えられないようなことだ。騎士は畏まり、じっと息を殺して頭を下げ続ける。ラヴィソンはペタリペタリと馬の鼻づらを撫でながら、少しばかり思案した。騎士の馬はよく見かけるような栗毛で、その外見から名づけるのは難しい。何かこう、偉い先人や聖人の名を与えようかとも考える。武運に恵まれた神の名がよいだろうか。小首を傾げて、ラヴィソンは自らが初めて与える名前を模索した。 「サージュだ」 「サージュ……」 「よいな」 「素晴らしい名を、ありがとうございます、殿下」  ラヴィソンは自分のつけた名前に満足し、おなかは空いていないかとサージュに聞いてやる。まるで人の言葉を理解しているかのように、サージュはラヴィソンをそっと赤毛の馬の方へ押しやり、自分は騎士の傍へ寄っていく。  騎士は立ち上がり、自分の愛馬の首のあたりを抱きしめて、すまなかったと詫びた。これからもどうかよろしくとその艶やかな毛並みを撫でる。サージュはそれに応えるかのようにブルブルと鼻を鳴らし、後ろ足で地面を踏みしめた。  ラヴィソンは、そうだそうだと頷いて、またしばし腕を組んで考え込み、自分に与えられた赤毛の馬の鼻づらを初めて撫でてやった。 「お前はエギュだ。エギュと呼ばれたら、ちゃんと帰ってくるのだぞ」  これでいい。ラヴィソンは一仕事をやり終えて、非常に晴れやかな気分だった。赤毛の馬は相変わらず目の前のラヴィソンではなく騎士の愛馬の尻の方を向いているが気にはならなかった。  騎士は磨き上げた馬具をサージュに取り付け、荷をくくり、ラヴィソンをエギュに跨らせてから自分も馬上の人となる。しっくりくる乗り心地に、安堵が広がった。 「本当にありがとうございます、殿下」 「よい」 「は。では、参りましょう。サージュが戻って参りましたので、予定より先に進めます」  騎士はラヴィソンの乗る赤毛の馬にも目を向けて、エギュ、ついて来いよと声をかける。ラヴィソンは、騎士が自分のつけた名前を口にしたことが嬉しかった。
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