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森の中を進む旅は、ラヴィソンにとってほんの少しだけ、自分の運命を忘れられる時間だった。本で何度か読んだことのある動物や、一日の時間の流れや、整えられていない路を行く困難は、王宮にいた時分には体感できなかったことだ。顔の下半分を覆う布も取り去り、外套のフードも外して、広い視界で辺りを見渡しながら進んでいく。
生まれながらに人生の過ごし方がほとんど決まっていた。だから、好奇心も育たず周囲の人間への関心も薄かった。だけど、それはやはり本来の状態ではなかったようだ。開放的な空気に誘われるように、ラヴィソンは少し口数が増え、思いつめたような表情も幾分緩んでいた。それでも、笑みを浮かべることはない。そもそも、彼はあまり笑わない日々を送っていた。
騎士は、その立場の違いからラヴィソンの首よりも上をしげしげと見つめるなどということはできない。大抵は目を伏せるか、馬上でなければ膝をついて頭を垂れて言葉を発する。だけど、それでもラヴィソンが笑っていないことくらいは察せられる。自分よりも十以上も年下の、まだ子供のような男が、笑うこともなく泣きもせずにこの旅を遂行することを思うと、それは自分の先行きよりもずっと不幸なことのように感じた。
その日の最後の休憩を、暗くなりつつある森の中で取る。騎士はラヴィソンの質問や疑問に穏やかに答えながら、ラヴィソンの様子を観察し、水分と食事を勧める。
起きた時よりさらに身体中が痛みを訴えていたけれど、ラヴィソンはおとなしく騎士の言葉に従っていた。小さな口を一生懸命動かして、騎士が用意した今だに慣れない食事を摂り、食べ終わると慣れない手つきで自分の腕や足を揉んでいる。
「お許しいただけるのであれば、おやすみになられる前に私が」
「……考えておく」
「はい。では、参りましょう」
相変わらず節々の痛みがひどくて、ラヴィソンは馬の乗り降りは一人でできない。あと数日もすれば筋肉の痛みや強張りも取れて、乗馬に苦慮することはなくなるだろう。そう考えながら、騎士の腕と肩に縋りながら、どうにか赤毛の馬に跨ると、ラヴィソンはそっと自分の胸元に手をやった。
まだわずかに二日目。この親書を届けられるのは一体いつになるのだろう。こんな状況下でもため息は出なかった。感情があまり動かない。そのように言われて育ったのだから当然だった。
「殿下」
「なんだ」
「明日の夕刻には、森を抜けます」
「森の向こうは、街であるのか」
「いえ。おそらくは小さな村が点在するだけかと。三日後には比較的大きな街がある場所に到着する予定です」
「大きな街のある場所で、幕営などできるのか」
「問題はありません」
騎士としては、できればそんな場所は迂回して、できる限り人のいない、寂れた地帯を行きたいところなのだけれど、どうにもラヴィソンの体調が気になって仕方が無い。身体に触れることはおろか、見ることさえ控えるべき立場で、ラヴィソンの全てを把握することなど到底不可能だ。しかも彼は長旅の経験はなく、幕営も野外での食事も何もかも、彼を疲れさせはしても癒すことはない。そしてこころには重たい責任を抱えているのだ。今はまだ、気が張っている。だけどそれが緩めば、一気に体調を崩すことは間違いないだろう。
ラヴィソンが具合が悪いと訴えた時には、もう無理が利かない状態かもしれない。一歩も歩けないかもしれない。そうなる前に察して差し上げられればいいけれど、騎士にはその自信がなかった。
騎士は貧しい村の生まれではあるけれど、穏やかでおおらかな両親と兄弟に育てられ、食うに事欠くことはない程度に満たされて生きてきた。十五を過ぎてからは騎士になるために、騎士になってからはただひたすらその職務を全うすることが生活の全てだった。娯楽がなかったわけではないけれど、誰かにこころを砕くことはしたことがない。たった一人に気を使い、守りながら歩くことは初めてなのだ。
だから騎士は、何かあった時、薬や医者や寝る場所の確保が可能な道順を選ぼうと考えていた。
森の中は闇に沈み、ラヴィソンは前をゆく騎士の広い背中と長い髪を眺めていた。彼の持つ小さなランタンが小さな灯りを揺らしているけれど、ラヴィソンにはすでに周囲の様子は見えない。ラヴィソンの乗る赤毛の馬は、相変わらずぼんやりと浮かび上がっている騎士の愛馬の尻を黙々と追いかけている。
「お前の家族はどこにいる」
「ナトの村に、住んでいました。今は、…………王都に」
騎士はほんの少しだけラヴィソンの方を振り返る素振りをして、低く答えた。
この任務を直属の団長に言い渡され、密かに王宮の官吏に会えと言われた。騎士はその日の内にそのようにし、任務の詳細、つまり、第三王子を護衛しながらバルバの国へ送り届けろという命令を受け、報酬を示された。その額の巨大さに驚いていると、ついでのように言われたのだ。「家族は王都へ移り住んでもらう」と。そして騎士は自分の運命を正確に悟った。
この長い旅はいつか終わるだろう。争い続けているとはいえ、その年月が長きに渡った結果、緊張感は弛んでいて、一般人が陸路で隣国へ入るのはそれほど難しくない。そもそも戦況をひた隠しにしたい国の思惑で、もっぱらの戦場である国境付近でも、一般人の往来のある関所の辺りは平時を保っている。
荷物や人相を検められ、行き先を質されはするけれど、問題なければ入国できる。門番の虫の居所が悪くても、金で解決できるだろう。だから、戦争相手である隣国に入ることは可能だ。そのまま先へ進み、隣国とバルバの国が接するところまで辿りつき、二国を分かつ大きな河を越えられれば、バルバの国だ。バルバの国は歴史があるのに鷹揚で、人々の往来も盛んだと聞く。入ってしまえば異国人であっても見咎められない。バルバの国の中心部へ行けば、身分を明かしても危険は薄い。宿にさえ泊まれるかもしれない。
だから、旅は必ずバルバの国まで行ったところで終わる。親書もきっと渡せるだろう。
しかし、ラヴィソンに帰路はない。
彼は貢物なのだ。親書にはきっとそのように記されていて、誰も口にしないけれど、誰もがそれを知っている。この宝石のような王子を差し出すから、援軍をくれないだろうか。王子の存在はこちらでは抹消しておくので、好きに扱っていただいてかまわない。きっと、流麗な文字でそのように書かれている。
自分への死刑判決文のようなその親書を胸に抱き、旅路を辿るのはどんな思いだろうか。逃げることはできない。王子は一人で生きていくにはあまりにも無力で、伴う騎士を懐柔しようにも、彼は家族全員を人質に取られている。そして騎士もまた、バルバの国からの返答の書簡を自国に届ければ、その人生を終える。
騎士は自嘲の笑みを浮かべる。王子のことを気の毒がるような状況ではない。自分こそ使いっ走りの使い捨てだ。そんな命令を下した自国の中枢に、こころの底から失望している。
それでも、ラヴィソン殿下だけは守り抜こう。バルバの国にさえ送り届けられれば、望みは繋がる。
騎士にとって、ラヴィソンの続いて行く未来を守ることこそが使命に思えていた。
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