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どこかで小さな音がした。騎士がまずいなと思うと同時に、その音はあっという間に増え、大きくなった。雨だ。
さっきまで多少は木の間越しに見えていた青空も、真っ黒に塗りつぶされている。騎士は慌てて大きな樹の陰にラヴィソンを誘導し、雨天用の旅装をさせようとした。しかし、彼の荷物の中に、そんな気の利いたものがなかったことに思い至る。
「殿下」
「雨でも、進むのか」
「はい。この程度であれば、馬の足元も問題ありません。恐れながら、こちらをお召し頂きたく存じます」
「それは何か」
「多少の水であれば、これで防げるようになっています」
騎士は自分の油引きの外套を指し示して、ラヴィソンの了承を求めた。ラヴィソンにしてみれば、雨天に外を出歩くなど思いもかけないことであったので、騎士の説明が上手く飲み込めなかった。
「……それを着れば、雨の中でも濡れずに済むのか」
「はい」
「雨に濡れても、陽が出れば乾くのではないのか」
「はい。しかし、恐らく雨が上がるのは夜半になります。濡れたお召し物が乾くよりも先に、殿下が寒い思いをされてしまいます」
ラヴィソンは、大きな樹の豊かな枝の屋根から時折零れ落ちてくる雨粒が、それほど嫌いではなかった。なんだか新鮮な気分がした。しかし、確かにとても冷たい。ラヴィソンは一つ頷いて、許すと言った。
「……重い」
「はい。ご辛抱ください。申し訳なく思います」
「……前が見えぬ」
「……で、ございますね。しかし殿下の馬は優秀ですので」
騎士の油引きの外套は、ラヴィソンをすっぽりと覆い、フードを被せれば口元まで隠れてしまった。ラヴィソンは顔も頭も小さくできているらしい。元々防寒に着込んでいた外套の上から着せたのに、ラヴィソンの身体は騎士の油引きの外套の中で泳いでいる。手綱を握る手元も、すっかり外套の内側に収まっている。馬上のラヴィソンは、シーツを被って遊んでいる子供のような風情だ。しかし騎士はそれに少し安堵した。できる限り濡れないようにして差し上げる必要があるからだ。
「このまま参ります。視界がないことでご気分が優れないなどがあればお声をお掛けください。手綱だけは、放されませんように」
「ああ」
「旅路の雨は、厄介です。しかし本来、雨は神からの恵みです。殿下のこの国に今まさに、恵みが齎されているのです」
「それを受け取る器が割れていてはどうしようもない」
「……私の浅薄な発言をお許しください」
「よい。参る」
ラヴィソンは重くて硬い外套の中で、背筋を伸ばしてあごを上げ、手綱を握り締めた。騎士はそれ以上口にできる言葉もなく、ギリッと唇を噛んで頭を下げ、自分の馬に跨る。チラリと後方のラヴィソンを見遣れば、赤毛の馬に外套がフカリと乗っているように見える。馬は騎士のほうを見て、何度か瞬きをした。
「頼むぞ」
そう声を掛けて、騎士は強くなっている雨の中へ自分の馬を進めた。ラヴィソンの馬は、騎士の馬の尻を真面目に追いかけてついてくる。
ラヴィソンは馬が動き出したので、手綱を握りなおした。視界は、自分の手があるだろう場所を覆っている油引きの外套の袖の辺りだけだ。樹の根元から離れると、枝の屋根がなくなり、大きな雨粒が一斉に外套を叩き始める。その音の大きさにラヴィソンは驚いた。初めて聞くその音は、自分を濡らした雨の滴と同じくらい、嫌いではなかった。大雨の中を濡れずに行くというのは、ラヴィソンにとって悪くない経験だった。
雨が降り止む気配はなく、樹木の密度の低い場所では白く煙るほどの雨量になったりもした。休憩をとる時は、騎士はラヴィソンを馬上に留めたまま、できるだけ雨に当たらない木陰に待たせて、まともな食事を用意することができないことを詫び、干し肉と常に新しく汲み直してある水を手渡す。ラヴィソンは何も言わずにそれを口に押し込む。
休んでいる間は自分の頭部を覆うフードを二つとも、騎士が除けてくれるので、湿った森の空気を思う存分吸って辺りを見渡すことができた。ラヴィソンは、全く口に馴染まない干し肉をむぎゅむぎゅと咀嚼しながら、虚ろに騎士を眺める。全く休みを取っていないように見えるけれど、彼の口も動いているから、同じものを食べてはいるのだろう。
騎士の外套はずぶ濡れだった。それを目にして、ようやく、ラヴィソンは自分が着ているこの重たい雨よけは、騎士のものなのだろうかと考えた。さっきまでは、雨を凌ぐためにすっぽり覆うように誂えられているのかと思っていたが、もしそうならただ単に身体に合っていないだけなのだろう。
ラヴィソンに背を向けて、騎士は二頭の馬の様子を看たり、荷物を確認したりしている。外套の裾からはひっきりなしに水滴が落ち、騎士の長い髪も色を変えている。ラヴィソンは、外套を返すべきだろうかと考えた。どうやらこの重い外套は、旅装としては必要なものだったらしい。それがないのだから、ラヴィソンの旅支度をした者の手落ちである。この騎士が我慢することではないのではないだろうか。ラヴィソンはまだ干し肉が飲み込めない。
「殿下」
「ん」
「お食事の最中ではございますが、先を急ぎたく存じます。よろしいでしょうか」
「ん」
「失礼いたします」
雨の一粒もラヴィソンにかからないように。
まるでそんな風に、騎士は丁寧で慎重な手つきで、ラヴィソンにフードを被せ直した。あっという間に音が遠ざかり視界が遮られ暗くなる。少し、首が痛い。
「灯りを、お手元に置いたほうがよろしゅうございますか?」
「んん」
「はい。では、参ります」
騎士は自分の馬の尻の辺りにランタンを下げ、おかげでラヴィソンの狭い視界も端っこのほうがほんのり明るくなる。赤毛の馬も追いかけやすいだろう。ゆらりと馬が揺れて歩き始める。ラヴィソンはようやく肉を飲み込み、息をついた。その息が僅かに白い。二枚の外套に守られているけれど、雨の降りしきる森の奥はとても寒い。
ラヴィソンは、騎士は寒さを感じないのだろうかと考えた。寒さにも強く、雨にも動じないからこの外套が自分のところにあるのだろうか。最初から、騎士は自分に着せるつもりで用意してきたのだろうか。
騎士に聞いて確かめようかと思ったけれど、声を掛けるには雨音が大きく、自分の声は届かないような気がした。ラヴィソンには、彼がどんな人間なのか、何を考えているかまったくわからない。ただひたすら、自分を守り、親書を届けさせる男。少し粗野ではあるけれど、第三王子への尊敬と礼儀を持って接してくる平民。
「ああ、そうか」
「何かございましたか」
「いや、何も」
小さな呟きが、騎士に拾われたことを意外に思いながら、ラヴィソンは納得した。この男は平民で、雨や風とともに生活をしているからこのような荒天でも平気なのだ。濡れようが乾こうが、鈍感であるから頓着しないものなのだろう。
ラヴィソンは自分のその結論が最も理に適っていると考え、これ以降疑問に思う必要はないとした。
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