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ラヴィソンは目を覚ました時、やっぱり驚くほど近くにある天井にギョッとした。ラヴィソンが知る天井というものは、ものすごく高いところにあって余すことなく装飾が施されているものだ。こんな、ベッドに立ち上がれば手が触れる……どころか頭をぶつけるような位置にあるのが不思議でならない。しかも汚い。
ここはどこだろうか。随分長い間揺られていて、随分長い間眠っていた気がする。眠って……そう、ここは天幕の中ではなくて天井のある場所で、ラヴィソンは自分が地面ではなく寝台に横たわってことにようやく気がついた。
「お目覚めでございますか」
ラヴィソンの視界の端で、もう見慣れた巨躯が動き、自分のそばに跪いたのがわかる。それでラヴィソンは安心した。自分はこの旅に脱落して、取り残されたのかと思ったのだ。
「……状況を」
「は」
騎士はラヴィソンに聞こえる最小限の声で、国境近くの村にある宿に泊まっているのだと言った。今は昼下がりで、昨晩遅くにここに着き、それからずっと眠っていたのだと。
ラヴィソンは、今までの人生でそんなに長時間寝たことなどなかったなとぼんやりと考えた。
「殿下。大変恐縮ではございますが、貴い御身分を知られるわけには参らず、この場においては私の弟であると偽っております。何卒お許しください」
「そうか」
「お加減は如何でございましょうか」
「……少し、空腹である」
ラヴィソンは、暖かい部屋の中で眠ったからだろうか、自分の身体が随分と楽になっているように感じた。そして、なんだか肌までスッキリと清潔であるような気もする。そういえば、騎士が拭いてもいいかと聞いていたかもしれない。
「高い熱で汗をかいておられたので、無礼であるとは承知の上で拭かせていただきました」
「よい」
身体など、そもそも自分のものでさえない。風呂でも数人に囲まれ、もし伴侶や側室や寵姫を得れば、その営みも隠すものではないと教えられて育ってきた。
そして今となっては見えない鎖に囚われた身だ。眠っている間に平民に辱められようと、バルバの国にたどり着けさえすれば良い。そこから先には、きっと身体のことなどかまっていられない日々が待っているのだから。想像はつかないけれど、守られて移動するこの旅路とは違う種類の、絶望的に暗い将来なのだろう。息をしているかどうか、目を開いているかどうかさえ定かではない。
ラヴィソンはそのようなことをそのまま口にして、だからお前のしたことは咎めないと騎士に伝えた。
熱はまだ下がりきらず、疲労は拭えない。思考が明瞭ではなく、理性が働かなくて、言うべき言葉かどうかを忖度することに考えが及ばなかった。
騎士は長い間黙り込み、恐れながら、と低い声で呟く。
「私にとって、殿下はかけがえのない御方であり、誰よりも尊くあられます。私はおのれの身分もわきまえずに殿下に触れ、御身を穢したのです。本来であればどのようにお詫びしようと許されることではございません。ましてや、不問に付すなど」
「よい。瑣末なことである」
「いいえ!このような場末の安宿にあろうとも、殿下が貴いことに変わりはございません!いかなる境遇に」
「起きたのか~?」
騎士はピタリと口を閉ざし、自分の声が外まで聞こえてはいなかっただろうかと慌てた。
油断したわけではない。ただ、ラヴィソンの諦観が、どうしても受け入れられなかったのだ。彼はキリキリと張りつめた気位で馬上にあり、地面に座ろうと干した肉を食べようと、こぼれる吐息さえ気高く美しく、その矜持を守り抜こうと背筋を伸ばす。どんなことになっても、ラヴィソンが卑しくなることはない。騎士にとって大切な人なのだ。
例えこの先に、悲惨な運命が待っているとしても、それから逃れられないとしても、そこから助け出すことが叶わないとしても。
騎士は下げていた頭をさらに下げてから、立ち上がって音もなくドアに近づいた。そして細く開け、覗き込もうとする亭主を視線で脅す。
「呼んでいない」
「飯」
「……」
「め・し。お前も食うべきだし、かわいい弟君は薬を飲んで体力をつけるためにも食べないといけない」
「持って来い」
「うちは一階の食堂で食ってもらうスタイルだ」
「弟はそんな状況ではない。このヤブ医者め」
「飯食ってないからだろう」
「だから持って来い。弟の口に合わなかったり、おかしなものが入っていたら貴様を殺す」
「ヘイ、お兄ちゃん。おかしなもののくだりはともかく、口に合う合わないは色々あるだろう」
「さっさとしろ」
「こんな場末の安宿に、注文が多すぎるんじゃねぇか?」
騎士は大きめの口を引き結び、亭主を静かに見た。一瞬、殺意を覚えた。それは衝動ではなく判断だ。ここにこの国の第三王子がいると知られるわけにはいかない。必要であればそう対処する覚悟もある。
亭主は騎士の目を間近からまっすぐに見つめ返して、へらりと笑う。
「おーこわ。持ってくればいいんだろ?酒は別料金だぜ」
「要らん」
「弟君は食えそうなのか?」
「貴様が夕べ診察したんだろうが。食えるものを持ってこい」
「あのね、お兄ちゃん……」
「一緒に熱いお湯も持ってこい」
「俺の腕は二本だ、馬鹿野郎!」
亭主の叫びは最後まで聞かず、騎士はその鼻先で扉を勢いよく閉めた。苛立ちをぶつけるかのようにひとつ蹴りが入れられたようだが、ここは奴の宿なのだから好きにすればいい。
騎士は踵を返して、ラヴィソンの寝台の傍にまた跪いた。
「食事の用意があるようです。しかしながら、あまり期待はできません」
「構わない。病気をしたときは、出されたものと薬を、口に合わなくても飲み込めと教えられている」
「その通りでございます。…………殿下、先ほどは大変失礼いたしました。私の出過ぎた言動をお許しください」
「…………よい。ここは安全なのだろうか」
「はい。あれはふざけていて軽薄な亭主ですが、医者だと申しております。昨晩はまともな医者を呼ぶことがかなわず、やむを得ずあれに診察をさせてしまいました。あれが触ったところは念を入れて拭きましたので」
「おら、お湯だ!」
騎士はとっさに腰の短剣を抜き、立ち上がりざまに振り向き、闖入者の眉間に突き付けた。その大きな身体で亭主の視界を遮り、立ちはだかってラヴィソンを隠す。そしてそのまま勢いよく壁際まで追い詰めた。
「殺されたいのならそう言え」
「お湯を持ってきてやったんだろうが!」
「なぜ入る前に声を掛けない?貴様の口は何のためについているんだ!」
「しょうがねえだろ、重かったんだから!」
「俺が聞いているのはそんなことではない!」
「うるせえよ!どうせ弟君の清拭だろ?どんだけ大事なんだよ、バカじゃねぇ!?」
「バカだと!?貴様、無礼だぞ!」
「はん!無礼で結構!飯作ってくるから気が済むまでフキフキしてやれば!?」
感心なことに、亭主は両手にたっぷりのお湯が入ったバケツを下げているにもかかわらず、騎士に迫られ後退り、壁に追い詰められても一滴も零さなかった。さらに言えば、騎士よりは少し低い位置から真っ直ぐに視線を受け止め、短剣を突きつけられても怯むということがない。軽薄で下品であるけれど、根性は座っているようだ。
騎士はそんなことを一瞬考えて、短剣を腰に戻しながらさっさと飯をもってこいと呟き、亭主の肩を掴んで扉口の方へ押しやった。
「弟は今から肌を清める。万万が一にも、貴様がそれを見ればその目を潰す」
「弟くーん、食いたいものはあるかい?」
「覗くな!」
「聞いてやってんだよ!おもてなしだろうが!」
「応えられるのか、こちらの要望に?だったら一番美味くて栄養のあるものだ!」
騎士越しに、なんとかラヴィソンの顔を見ようと亭主が背伸びしたり屈んだりする。その動きに合わせて騎士が手をかざし、自分の身体でラヴィソンを隠し続け、最終的には亭主の顔面を手のひらで覆い、親指と小指でメリメリとこめかみを圧迫しながら部屋の外へ突き出す。
「いだいいだいいだいいいいい」
「いいか。貴様は黙ってまともな飯を作って持ってくるんだ。持ってきたら、戸を叩いて、俺が開けるまでその場でじっとしていろ。わかったな」
騎士は恐ろしく低い声でそう言って、きっちりと扉を閉めた。鍵が壊れているのだろうか?それとも亭主はどの部屋でも開けられるのか。騎士は役立たずかもしれない鍵で一応は施錠し、さらに扉の前に愛馬から外した頑丈で大きな馬具を置く。
「お見苦しいところをお見せしまして、申し訳ございません」
「……知り合いであったのか」
「いえ」
ラヴィソンは天井を眺めながら不思議に思った。平民同士の話すところなど初めて遭遇した。随分と粗野な言葉で、大きな声で早口に話すのだとびっくりしたし、騎士までも自分に話すのとは全然違う様子だ。所々意味が理解できない単語もあったけれど、総じて二人は親しいように聞こえた。以前からの知り合いであれば、この宿が安全であるということも理解できる。しかし……違うのか。
「馴れ馴れしい、ただの野蛮な男でございます」
「フキフキとは何か」
「……殿下がお知りになる必要のない、くだらない言葉でございます」
「さようか」
「もし、お身体が起こせるようであればお座りいただけますか。肌を拭きます。お許しいただけるのであれば、でございますが」
「……起きてみる」
「はい」
騎士はそっとラヴィソンの腕を掴み、肩、背中と順に支えてゆっくりとラヴィソンが座るのを手伝った。緩慢な動きだったにもかかわらず、ラヴィソンは少しめまいを覚えた。しかしそれも大したことはないようだ。長めの瞬きを幾つか繰り返して、狭い部屋の中をゆるゆると見やる。
ラヴィソンにとって、初めての平民の家だった。正確には宿ではあるが、おそらく大して変わらないだろう。節の目立つ黒ずんだ床板と壁。似たような素朴な書物卓と同じく木で出来たドア。装飾もない、本当に粗末な部屋だった。
「……馬は」
ラヴィソンの目に、騎士がドアの前に置いた馬具が映った。騎士の馬がつけていたものだ。特徴的な色なので間違いない。
騎士はお湯を手桶に移してその中で手ぬぐいを絞りながら、小さな声で答えた。
「前庭につないでございます」
ラヴィソンはそれを聞いて、ドアの方と反対側へ首を巡らせた。そちらに窓があって、向こうが少しゆがんで見えるような粗末なガラスが嵌っている。そのガラス越しに眼下を望めば、小さな前庭に囚われるように赤毛の馬が見えた。
「失礼をいたします。服を開きます」
「……足りぬ」
ラヴィソンは、騎士に服をはだけられて温かい手ぬぐいで肌を清められながら、不安を感じた。どこへ行ったのだろう、あの馬は。いつも騎士が乗っていて、信頼できる相棒だと言っていた、あの賢い馬は。
騎士は黙々と目線を下げたままでラヴィソンの身体を拭き続ける。
「私の馬は目立ちます」
「どうしたのだ。あの馬はどこへ行ったのだ」
「放しました」
「では、帰ってくるのだな。あの馬は賢い。呼べば、その声を聞きつけて」
「殿下、窓の方へ身体を向けてください。背中を拭きます」
「帰ってくるから、馬具はここへ残してあるのだな。散歩のようなものであるか」
ラヴィソンは珍しく多弁になり、促す騎士に従いながらも自分の望む答えを待った。しかし騎士は、それを差し出すことはできなかった。
「……あの馬は、私と過ごしたこの数年より前は、山にいたのです。今頃、昔のように伸び伸びと駆け回っているでしょう」
「呼べば良い。そばへ来て欲しい時は呼ぶのだ、名前を。そうすれば寄ってくる。知らぬのか」
「あの馬に、名前をつけるのを忘れておりました。申し訳ございません」
騎士はラヴィソンの上半身を拭き終えると、夕べ洗濯して綺麗に乾かした服を着せた。そうしておいてから、上掛けを取り払って下衣を脱がせ、下半身を拭く。
ラヴィソンは騎士の落ち着き払った様子が腹立たしく思えた。長い間一緒にいて名前もつけないなど、なんという間抜けなのだろうかと憤慨さえする。そして、あの馬がいなくなったというのに、悲しむ素振りのないことに、騎士はとても冷たい男なのだと落胆した。
騎士は、ラヴィソンの見せるあの馬への執着は、恐らく生まれて初めてだろう近しい動物への愛着なのだろうと考えた。一度も触れることはなかったけれど、それでもこの数日を共にしたのだから不思議はない。
動物というのは、こちらの言葉を理解してくれて、心身を支えてくれることが往々にして起きる。傷つき疲弊したこころを癒してくれる。もしかしたら、自分などよりもずっと、あの馬がこの高貴な方を慰めていたのかもしれない。
「本当に帰ってこないのか」
「……旅に馬は必要です。ここを去る前に、この町で一頭調達いたします」
「あの馬ではなく、別の、新しいのを」
「はい」
「あの馬でなくとも良いのか」
「私が殿下に随行するのに、事足りる馬であれば良いと考えます」
ラヴィソンは不意に、この事態は、もしかしたら自分のせいなのではないかという考えがよぎった。自分が体調を崩さなければ、こんな宿に泊まることもなかった。そうすれば、多少目立つ馬であっても手放す必要はなかったはずだ。だとすれば、……どうしたらいいのかはわからない。
ラヴィソンは言葉を失い、騎士に拭いて貰った身体に新しい服を身につけ、寝台におとなしく座ることしかできなかった。
騎士が残ったお湯で、今しがたラヴィソンから脱がせた服を洗おうとした時、扉を叩く音がした。どうやらあの亭主はこちらの言いつけを守ったようだ。騎士は足元の馬具を退けてからほんの少しだけ扉を開けて、亭主の手元を確認する。不審なものには見えないが、非常に簡素な食事が盆に載せられている。
「こっちがあんたの。これが弟君の」
「中身は」
「イモリの黒焼きと俺の愛」
「もういい。これを食べて、あの怪しげな薬を飲めばいいのだな」
「怪しいオクスリが要るなら、用意しようか」
「ご苦労だった。下がれ」
「あ、ちょ……」
騎士は亭主から盆を受け取り、扉を閉めて施錠し、気休めではあるけれど馬具をその前に置き直す。まず、盆を書物卓に載せて、中身を確認した。ラヴィソンの分だという、小さな鉢に入ったスープと柔らかそうなパンの一部を毒味して、それも気休めではあるのだけれど、騎士はラヴィソンのそばへ跪いた。
「殿下。お食事でございます。足の上に載せましょうか。それとも、私が持っておりましょうか」
「ここへ載せよ。自分で食べる」
「少し熱いようです。お気をつけくださいませ」
ラヴィソンの細い太ももの上に、騎士は柔らかい織物を敷いてから盆を載せた。ラヴィソンは木でできた匙を持ち、スープを一口飲み込んでみた。驚くほど美味しい。野菜がたくさん入っていて、それがどれも柔らかくて甘くて、少し強い塩味が食欲をそそり、パンを含めて全部を腹に収めることができた。
それを見た騎士は、彼の回復をこころから喜んだ。
盆をどけ、水と薬を渡し、ひどく苦いらしいので、大きいけれどこのまま飲んで欲しいと言えば、ラヴィソンは健気に承知しそのようにした。
「もう少し、お眠りください。夕飯の用意ができたら声をお掛けいたします」
「ああ」
「どこか、お辛いところはございませんか」
「……少し、足が痛い」
「はい。足の裏ですか?それともふくらはぎでしょうか」
「どちらもである」
騎士はラヴィソンがベッドに横たわるのを手伝い、上掛けをかけてから、足元を捲って確認する。足の裏は水ぶくれができていた。そこへは膏薬を貼り、いつかと同じように手のひらに油を取り、ゆっくりと力を入れないでその細い足を撫でる。ほんの一滴、気持ちを沈めて安眠を誘う香油を足したからだろうか、ラヴィソンは程なく眠りに落ちた。
騎士は丁寧にラヴィソンの両足を撫でさすり、温かい手拭いて拭きあげてから服と上掛けを元に戻した。
ゆうべに比べれば、ひどく穏やかな寝息だった。
騎士は自分にあてがわれた食事を手早く済ませ、洗濯をしながら、馬や他の物資の調達をどうしようかと考えた。
ラヴィソンのそばを離れる訳にはいかない。しかし、体調を崩しているこの美しい人を連れて、人の多い場所へ行くのはあまり気が乗らない。
予定外の寄り道ではあるものの、せっかくなのでこの機会に補充したいものはある。馬は絶対に必要だ。金を渡して、あの亭主に頼むしかないだろうか。
そう考えていたら、扉を叩く音がした。ラヴィソンの眠りを妨げない、控えめな音だった。
「なんだ」
「食器をもらいに来た。食べられたか?」
「ああ」
「よかった。もう寝たのか?薬は飲ませたか」
「ああ」
「多分、今晩はもっとよく眠れる。もう少したくさん食べられそうか?」
「ああ」
「よかったな」
「おい」
騎士は、まるで医師のような顔つきで患者を心配する亭主に、この辺りで旅装の類が手に入る場所はあるかと尋ねた。亭主は、歩いてすぐだから後で地図を書くという。この宿屋が入り組んだ場所にあるから、距離はなくとも迷うらしい。
「弟君はどうするんだ。俺が見ていようか」
「金を払うから、俺の言うものを買ってきてくれないか」
「いいけど。あんた、馬がないと言っていなかったか」
「ああ。だから馬も見繕ってきて欲しい」
「俺の見たてだと、明日になれば弟君は元気になる。自分で行って選んだ方が確かなんじゃないのか?」
「弟は人ごみに慣れていない」
「だからお留守番もさせられないって?過保護だねぇ、本当に。護られているんだろう?」
「明日発ちたい」
「今から行けってね、ハイハイ。仕事を片付けてくるから、必要なものを紙に書いておいてくれ」
亭主は呆れた顔で食器を持って戻り、騎士が細々としたものを書きつけ終わる頃に再び顔を見せた。騎士がその紙と金を渡すと、幾つか確認を繰り返してから諾と受け取る。
「あの鞍を載せるのか?」
「そのつもりだ」
「よほど立派じゃないといけないだろうな」
「長く乗る。高くてもいい」
納得したようなしないような顔をして、亭主は出て行った。騎士は馬具の手入れをしたり、自分の身体を拭いたりして明日の出立に備える。ラヴィソンは時々、譫言で何か言っている。大抵は不明瞭で理解できないけれど、一度だけ「迎えに来て」とはっきりと聞こえた。
途端に騎士の胸が痛んだ。
「迎えに来て」とすがる相手は誰なのだろうか。すでに儚くなられたご母堂様か、彼をこの旅に出した玉座の兄上か、現状を作り出し行方の知れない父君か。
できるだけ部屋の端にいるようにして、ラヴィソンから距離を取る騎士にはその表情は伺えない。もちろんそもそも覗くつもりもないけれど、その短い言葉が、とても悲痛で無垢で、やるせなさに眉根を寄せた。か細い身体に重すぎる責任と重圧。そんなものからも護るには、どうすればよいのだろうか。
「馬は、いいのがいなかった。どうしても要るなら俺のを貸すが」
「返すあてがない。次の街で買う。世話をかけてすまなかった」
随分走り回ってくれたのだろうか、亭主が戻って来たのは遅い時間だった。頼んだものはどれも充分な品で、だけど馬は手に入らなかったようだ。貧相な馬では途中で乗り換えなければならなくなる。亭主の判断は賢明だ。大量の物資を確認しながら、騎士は満足できる補充が叶って安堵した。
「弟君は?」
「まだ寝ている」
「そう。目が覚めるたびに、水だけは飲ませろ。熱は下がったのか」
「ああ」
「診ようか」
「いい」
「はは。……信用されてないなぁ」
「そうでもない。助かった。ありがとう」
騎士は受け取ったものを扉のそばに置き、肩を竦める亭主を促して一緒に廊下に出る。
「宿代の精算は後でする。こっちは今済ませてくれないか」
ラヴィソンが寝ている今のうちに、約束していた報酬を彼に払っておこうと考えた騎士は、扉を静かに閉めて、亭主にそう言った。正確にその意図を受け取った亭主は、パチリと瞬きを一つして、綺麗な顔を歪める。
「本当に廊下なのか」
「昨日言ったはずだ」
騎士はにべもなくそう答えると、簡易で薄い生地でできたズボンを下ろそうと腰紐をほどいた。事後は馬に乗るのも痛いだろうが、馬を買うあてもなくしばらく徒歩で進むのだから、早めに済ませて回復に時間をかけたい。
騎士はためらいなく下穿きを晒し、それも自分で下ろすと、階段側の壁に手をついて亭主に背を向けた。性交の経験はあまり多くはないが、秘部が出ていれば事足りることぐらいはわかる。衣服が膝の辺りにわだかまっているけれど、足は肩幅程度には開くし問題ないだろう。さあ、やってくれと言えば、亭主が盛大にため息をついた。
「……あんた、最低」
「あいにく、色気も機微も持ち合わせがない。我慢してくれ。穴はある。それでいいだろう」
「こっち向けよ」
騎士がふんと鼻から息を吐き、背中を壁に預けるように亭主の方へ向き直れば、亭主はひどく複雑そうな表情を浮かべていた。
「なんだ」
「さっさと済ませたい?」
「ああ」
「ふうん。俺もご無沙汰だから、たっぷり味わいたいし、手加減できないから怪我させるかも」
「好きにしていい。怪我は……勘弁して欲しいところだが、ある程度の覚悟はある」
「……少し待ってろ」
亭主は下半身を晒したままの騎士に苦々しく言い捨てると、足音高く階段を降りていった。面倒な男だなと騎士は呆れ、それでもそのままの格好で壁に持たれて亭主が戻って来るのを待った。
流石に急所が寒いなと感じる程度に時間が経った頃、亭主はようやく戻って来た。
「……あんたさ、旅の旦那、無粋だとか朴念仁だとか言われない?」
「言われない」
そんなことを言われたことなどない。騎士は亭主が何を言いたいのかわからず、少し低い位置にある頭を眺めた。その頭がストンとさらに下がった。何事かと思えば、亭主が騎士の前に跪いたのだ。彼は自分の目の前にある、冷えた騎士の急所に手をかけた。
「どうするつもりだ」
「黙ってろよ」
亭主の頬が少し赤い。彼は手にした騎士のモノをスルスルと撫で、顔を近づけたかと思うと、パクリと全部を口に含んだ。そのまま口の中で舌を這わせ、唇で締めては吸い始めた。
「おい?」
騎士が怪訝そうに亭主の長い髪をゆるく掴んで顔を上げさせようとするけれど、亭主は騎士の腰の辺りに腕を回して口を離そうとしない。刺激を受けて騎士の男根が大きくなり始めると、さらに熱心な愛撫を続け、頭を振る。好きにしてくれ、と騎士は後頭部も壁に押し当ててすぐそばに迫る汚い天井を見上げた。
性欲はあまりない方だと思うけれど、巧みな口淫は気持ちがいい。騎士は自分の性器が加速度的に勢いを増し、最大限にいきり立つのを感じた。俯けば、収まり切らずに亭主の口から根元が見えている。それでも亭主は一生懸命喉の奥まで迎え入れ、騎士の陰毛に鼻を埋め、形良く浮き出ている騎士の腹筋に額を押し付けている。
「口でするのが好きなのか」
「ん、んふ……は、はあ……デカイよ、あんた」
「勝手に始めたのはお前だ」
「しょうがねぇだろう。あんた、俺じゃ勃たなさそうだから」
「その穴には流石に何も入らんぞ」
「ちょっと頼むから黙っててくれないか。俺にだって、感情があるんだよ」
騎士が黙り込むと、亭主は唇を手の甲で拭いながら立ち上がり、自分の下半身をあらわにする。局部は興奮を兆している。それを恥じるかのように、亭主は騎士に背中を見せて壁を向いた。そして自らの手で、尻の肉を左右に開いて少し腰を突き出す。
「……それ、入れてくれ」
どうやら予定と立ち位置が変更になったようだ。亭主が受け入れる側で、報酬になるのだろうか。騎士は無言のままで背後から亭主を観察する。耳が真っ赤だ。
「は、早くしろよ、妥協してやってんだよ、あんたが長旅に出なきゃなんねぇから」
動かない騎士にしびれを切らしたのか、慌てて取り繕うように亭主が喚き始めた。騎士は黙ったまま彼の肩に手をかけ引き寄せる。亭主はそれに驚き、ますます頬を赤らめる。
「え、なに……旦那、俺……」
「そっちは部屋だ。こちらに手をつけ」
「安定の弟君至上主義だね!?」
一瞬で素に戻った亭主を、さっきまで自分がもたれていた壁に押し付けると、騎士は太く硬くなった自分の性器を亭主の尻の間に擦り付けた。途端に亭主の身体が強ばる。
「ああ、なんだ、準備をして来たのか」
「い、いきなり突っ込まれたら痛いだろうが!自己防衛だよ!どうせあんたは俺なんかに優しくしないだろうから!」
「これでいいんだな?」
「だから、だって、あ……!!」
騎士は亭主の尻たぶをぐっと押しつぶすように割り開き、柔らかくなっている尻穴に挿入した。
流石に全部一気に突き入れたりはしないけれど、その大きさと熱に、亭主は勘極まったような吐息をこぼす。服の上からわかるほど身体を震わせ、騎士のものを全部受け入れると、合図のように、カリ、と壁に爪を立てた。
騎士は自分より少し小さい背中を眺めながら、ドンドンと腰を叩きつける。それ程経たないうちに、亭主は噛み締めた歯の隙間から唸り声を零しつつ、尻を思い切り締め上げてきた。そして大きく身体を跳ねさせる。古い木の床に、粘液が垂れ落ちる音がした。
「いったのか?」
「あ、だめ、くそ、抜くな、旦那、もっと……!」
「静かにしてくれ。弟が起きる。今のでいいか?もっと激しいのが好きか……ゆっくりがいいか」
「……!!!っ……!!」
覆いかぶさるように騎士も壁に手をついて、自分の下でのたうつ男に問いかける。これは報酬なのだから、この男のいいようにしてやる必要があるだろう。幸い、すでに達したようだから、最低限の責任は果たした気もするけれど、診察に食事に買い出しにと、何かと融通してもらった分ぐらいは返したい。
騎士は自分の腰骨が亭主の尻に密着する程奥までねじ込んで、そのまま性器全部で亭主の中を圧迫するように揺さぶった。亭主は髪を振り乱して頭をブンブンと左右に振り、堪えきれないというかのように、一つ高い声を上げてまた果てたらしい。
「言えば、その通りにする。どうして欲しい?どういうのが好みだ?」
「あ、あー……!ま、て、耳元で、しゃべんな……!」
「大きな声が出せない。わかるな?耳が弱いのか?」
「きゃぁ……っ!!」
騎士は亭主の耳を後ろから齧り、腰をしっかりと固定して、強く握りしめて来るような内部をゆっくりとこすり始めた。ギリギリまで抜き、時間をかけて根元まで埋め、弱点を探って、見つけたそこを徹底的に責め立てる。
激しく優しく突き入れ引き抜くことを繰り返していたら、いつの間にか亭主が汗ばんだ手で騎士の腕を掴んでいた。意外な行動を不思議に思い、亭主の顎を捉えて後ろを向かせれば、とろけ切った顔で騎士を見つめる目には涙が溜まっている。
「気持ちいいか?」
「……見りゃ、わかんだろ……あ、ん、あん、すごい、いい……っ!あんた、あんたの、すごいね。俺んなか、もうトロトロで、止まんねぇ……」
「ここが一番好きだな。こちらを向け」
「あ、だめだよ、そんなのもう、だめだってば……」
騎士は駄々をこねるようにフニャフニャと抗議してくる亭主を反転させて向かい合わせにすると、たくましい脚を片方肩に担ぎ上げ、身体を脚の間にねじ込むような体勢に変えた。亭主はぎゅうっと目を閉じて、唇を噛み締めて俯いている。
「腹側を押すと、気持ちいいんだろう?俺のは上反りだから、この方がよく当たるだろう」
「ばかっ!旦那のばかぁ……!あ、あー!!あああ!や、も……死んじゃ……!」
「静かにしてくれ。望む通りにするから、声を」
「ばか……ひどいよ、旦那……!ひん……あ、く……!……!!……──!」
亭主は消えそうな声で騎士を罵り、縋るように両腕を騎士の首に回すと、至近距離で目を覗き込んでくる。目の淵が赤い。触れてしまいそうな唇で、やめないで、と亭主は囁く。そして必死で声を咬み殺す。
騎士は亭主の服の上から筋肉で張りつめた胸を弄って、立ち上がっている二つの粒をグリっと押しつぶす。途端に亭主の尻穴は痙攣したかのように断続的に緊張と弛緩を繰り返した。亭主は声を上げなかったけれど、よほど気持ちよかったのか直後にぐったりと身体の力が抜けて目が虚ろになっていた。騎士はそれを見て取り、満足させられたようだと納得して、亭主の身体を抱え直す。
「俺ももうもたない。いいか?」
「なか……!」
「中?出されるのが好きか」
「好き、だ……旦那……好き……中に、ちょ、だい……!」
「本当に出すぞ?」
「んああ……っ!!あああっ!すご……い、いい!も、あー……!あー!ん……!!」
蕩けた亭主の尻の穴は、騎士のを受け入れて喜んでよだれを垂らしている。粘液に混じる空気がつぶれる音と、大柄な男どうしが肌をぶつけ合う音が薄暗い廊下に響く。騎士は自分の限界を感じて、猛烈な勢いで腰を動かし亭主を追い詰める。自制が効かなくなったらしく、闇雲に暴れる亭主を押さえ込み、その口を手のひらで塞ぎ、これで報酬になっただろうかと考えてから、亭主の望む通り、その腹の奥へ精液を流し込んだ。口を塞がれた亭主は、鼻から荒い息をフーフーと吐き出しながら、酸欠と快感で朦朧としていた。涙で歪む目で見上げた天井は、意外と汚かった。
「殿下……お食事でございます。具合が悪くないようでしたら、お目覚めになってください」
ラヴィソンは深くてさっぱりとした眠りからスッキリと浮上した。眠っていたと自覚がない程、深く質の良い眠りだったようだ。パチリと目を開ければ、汚い天井がある。騎士はすぐそばに蹲るようにして跪いている。
「うむ。起きよう」
「はい」
「もう夜であるのか」
「間もなく陽が落ちます。食欲はございますか?」
「うむ。昼に食べたスープを所望する」
「わかりました」
ラヴィソンはもうすっかり元気になっていた。それを騎士に伝えれば、騎士はとても喜び、明日の朝出立してはどうかと進言してくる。ラヴィソンは、自分が旅の途中であることを思い出して、少し気分が塞いだ。
「そのようにする」
「はい」
立ち止まっていても、物事は進まない。ラヴィソンは寝台の上ですっと背筋を伸ばして窓の外を眺めた。遠くの森に、確かに空を染めながら陽が落ちていく。今日一日の仕事を終えて沈む太陽は、寂寥を残して消えていく。
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