触れたい、触れられたい

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 家の東側に小さな川というよりは用水路があって、稲作の期間だけ使用される。だから、そこの水の音が聞こえ始めると梅雨の前だなと思う。さらさらというよりも、シャーシャー、ちゃぽん。一度流れ出すと秋の稲刈り前まで止まらない。うるさくはないけれど、その音で目が覚めるとなぜだかちょっと心地いい。17歳になったばかりだから、そう感じるようになって数年ぽっち。まだノスタルジーを感じるほどじゃない。だけれど、窓を開けて確かめる。水面がきらきらと輝き、すごい速さなのが窺える。山はいつもの形。朝の空気はやたらと新鮮で、健康な私の体は勝手に酸素を取り込む。  水の音が人を安堵させるのはお腹の中にいた頃の名残りと教えてくれたのは幼馴染の洸(こう)だ。私の名前はひかりという。近くに生まれたのに同じような意味の名前を付けてしまったのは両親が仲良しだからではなくて、似たような希望を抱いたからだと思う。山へと通じる同じ道沿いに家がある。中腹よりやや下。洸の家は本屋でうちは自転車屋を営んでいる。運命というよりは似た境遇なだけ。 「ひかりー、起きなさーい」  弾んだ母の声が最近特に苦手。母はアイドル好きで、今朝はお気に入りの子が番宣のためにテレビに出ると数日前からはしゃいでいた。それでも手を抜かず朝食を作ってくれるだけまし。父の姿が食卓にないのはいつものこと。  朝食を済ませて店に顔を出した。 「お父さん、おはよう」 「おはよう」  父は朝早くから店を開けている。自転車を買いに来る客よりも朝夕のパンク修理の仕事が多い。中学生も高校生もうちの前を通る。家の売り上げために道路に釘をばらまくほど幼稚じゃない。早速、客がいた。 「北、おはよう」  同じクラスの鍋島だった。私の苗字は堀北なのだけれど、自転車屋の看板から堀が外れて直さずにいるせいか、北と呼ばれるようになってしまった。 鍋島は野球部のクラスで一番うるさい奴。顔を見れば、 「パンツ見せて」  と言うくせに、さすがに親の前では口にしない。実はちゃんとした奴だって知っている。家は古くからある地主だし、毎日まじめに練習をしているから2年生なのにレギュラー。今日だって、朝練のためにこんなに早くから登校するのだろう。 「おはよう」 「のんびり屋だな。まだ寝てたの?」  彼の嫌いなところは声がデカいところ。 「パンク? 時間かかるならうちの自転車貸すよ。そのほうが早いでしょ。ね、お父さん?」  父はタイヤを水につけてパンクの箇所を探しあぐねている。そんな自転車も減ってきている。 「そうだな。そこのならどれでもいいよ」  と父が壁際のなんとか乗れそうな自転車を指さす。 「ありがとうございます」 「ごめんね、ぼろいやつしかなくて」  一番まともで、彼の体格にあった高さのものを選んであげた。サドルの位置を調節してあげる。 「練習に遅れそうだから助かるよ」  直角より深い一礼までして、鍋島は颯爽と店の前の坂をのぼっていった。  私はのぼり坂が嫌いだ。苦痛でしかない。鍋島にとっては違うのだろうか。太ももを鍛えられるいい機会と捉えているのかもしれない。  制服に着替え、テレビにかじりつく母を尻目に日焼け止めを拝借。アイドルグループに夢中になってすっかり乙女と化した母は、父に内緒で高い化粧品をこっそり買っている。高いものはそれなりに効果があるようで、母は徐々にきれいになった。父はそのことに気づいているのだろうか。 「ねえ、ちゃんと録画できてる?」  半ばヒステリックに母が聞く。 「できてるよ、ほら点滅してる」 「本当に? あ、終わった。停止っと」  どうしてたった2分を録画しようと思えるのだろう。そのために5時に起きるなんて考えられない。  母は録画した部分を早速見返して、 「うふふっ」  と笑った。母は空手道場の娘で、ムキムキではないけれど、強い印象しかない母がなぜこんなふうになってしまったのだろう。 「いってきます」  荷物を持って家を出る。 「いってらっしゃい」  母はちらりと私を見た。  父は店にもいなかった。配達にでも出かけたのだろう。 その平和な空気を気持ち悪いと思うほど、私は反抗期ではない。むしろ、親には感謝しかない。平穏な田舎に生まれたおかげでのんびり屋に育った気がする。それに、ずっと洸に恋をしている。  自転車で学校へ向かう。自転車屋の娘だけれど、普通のママチャリ。こだわりはない。その途中で徒歩通学の洸と出くわす。 「おはよう」 「おはよう」  会話はそれだけ。私は彼の速度に合わせて自転車のペダルを漕いだり、ちょっと進んでは休んだり。洸は本を読みながら歩く癖があって、だから自転車よりも徒歩がいいらしい。 「新刊?」  私は聞いた。 「うん」  カバーをしているからタイトルもわからない。 「おもしろい?」 「女と男のつまらない話さ」  表情を変えずに洸が答える。私の切なさは一方的とも知らずに。 「でも世の中はたいていそれで成り立っているんでしょう?」 「まったくだ」  私は洸とここで朽ちるのだ。物心ついたときから、ぼんやりとそう考えていた。当たり前のこと。でも最近は、この町から出たいと密かに思っている。世界は広い。それを見たいわけじゃない。ただこの閉塞感から抜け出したいだけ。洸は残るだろう。そうしたら一緒にいられなくなってしまう。洸を引っ張り出せる知恵も、乗せられる口車も持ち合わせていない。ここにいたら、私も母のようになるのだろうか。父が好きでも他で気を紛らせないと退屈と感じる女にはなりたくない。その思考は堂々巡りで、ため息をついても一ミリも消えてくれない。  私はいつも洸の襟足を見ている。髪と首の境目が好きだなんて言ったら怒るのだろうか。  登校時間なのに同じ制服を着た人間が視界にいないほどの田舎である。 「雨だ」  洸が本をしまう。彼は自分よりも本を大切にしている。家業を大事にしていると言えば聞こえはいいが、本の内容よりも本自体が好きな変人。本の虫じゃない。小説家を目指してもいない。ただ、読む。感想を述べ合うことに重点を置かない。強要もしない。空気を吸うように当然なこと。私は流行りの漫画すら読まない。それでも私は洸が好きで、洸もきっと私が好き。私とそんなに身長差がなく、高校生になったら伸びると豪語していた彼のことがたまらなく好きだ。
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