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 雨が山をおりた朝。  神殿の前庭、しげる枝葉から水がしたたる。敷きつめられた玉砂利のあいだに一粒の露が輝いていた。  そこへたおやかな手が伸びる。  露は消えず、細い指先にとらえられた。  真っ白な衣につやのある黒髪を広げた少女が、雲間にのぞく青空にそれを透かす。  おそろいの巫女装束を着た少女が、回廊から元気よく呼びかけた。 「美李(みり)、大官さまがお茶を煎じてくれるよ。一緒にいただこう」  無邪気にはしゃいでいた彼女は、ふりむいた友人の手に光るものを認め、サッと顔をこわばらせた。 「それ…… まさか、竜神さまの」 「恋が降ったわ」  美李は静かに言い、小指の爪ほどの白石へ視線をそそぐ。  淡い七色の輝きを放つ天の石は、この地に生きる者への警鐘だった。  巫女たちが仕える神殿は、雄大な峰を少しのぼったところに建っている。  見あげれば空へ食い込みそうな頂が、見おろせば太くうねって流れる川が。飛沫をあげる鮮烈な奔流こそ、一帯の信仰を集める竜神の象徴だ。  夜通しの雨のおかげで水勢は増している。  どうどうという絶え間ない響きが、本堂の脇の小間まで届いてきた。 「見つけたのは、このひとつかね」  神官の長である老人が巫女へ尋ねる。  卓の上には、雲母紙に乗せた天の石が陽を受けていた。 「はい。奈々と一緒に、裏のお庭までめぐりました」  背すじを伸ばし答える美李は、ぱっちりひらいた瞳と梅の花びらのような唇をした、あでやかな少女だ。 「竜神さまの恋雨滴。これほど美しいものだなんて……」  彼女は少し身をかがめ、自分の命を左右する天の石を夢見るように眺めた。  竜神が人間に恋をすると、消えない雨が降る。  だが神と人の恋は決して叶うことがなく、想いが破れた時、大きな怒りが土地を襲う──  そんな伝承のとおり、ふもとの里には古い大水害の跡が残っている。  悲劇をくり返さないため、崩壊の前に(にえ)をささげることが定められていた。ひと月のあいだに降る石が定量を越えたなら、儀式は行われる。  川底へ送られるのはもっとも美しく聡明な巫女であり、当代においては美李の役目だった。  最後に贄がささげられたのは百年も昔。  以来、天の石は数度降り、いずれもすぐに途絶えた。しかし不安を隠せない奈々は声を高くする。 「きっとこれっきりよ! そんなにいくつも降るわけないですよね、大官さま」 「うろたえてはいけないよ、奈々。御石をおまつりしなさい。それから皆を集めて話をしよう」 「はい……」  奈々は気乗りしない様子で石をささげ持つ。  美李と同じく、今年で十四をかぞえる彼女だが、いつまでたっても里娘のふるまいが抜けない。  贄の巫女がやさしく腕にふれた。 「私の命は、ここへきた日から竜神さまへお預けしています。さあ、祭壇へお供えしましょう」  あまり表情豊かな質ではない美李だが、たまに見せる微笑みは花のように香り、人の心に残った。奈々も笑顔を取り戻し、ふたりは連れ立って小間を出た。  本堂の祭壇には、天駆ける竜神の姿を織りあげた垂れ幕を中心に、供物を乗せた三方(さんぼう)が並んでいる。  その隅にほっそりした青銅の台が据えてあった。  恋の雨をつまんだ奈々が、台の上にそうっと差し出す。  石は、チリッと薄い音をたてて収まった。(さかき)の葉ほどの小さな皿から石があふれた時、美李の運命は決まる。  奈々は彼女の手をぎゅっと握り、つぶやいた。 「最初で最後。絶対にそうよ……」
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