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 昼の祈祷を終えた美李は、ひとりで裏庭にまわり、五月の晴天を見あげた。  真綿のような雲が高みを流れる。大きくつながった白雲は竜の寝床とも言われていた。  ──竜神さまは、誰に恋をしているのかしら。  どことなくくすぐったい気持ちになった時。  さわやかな風に乗り、澄んだ笛の音が耳をなでた。  ドキリと心を鳴らした美李は、かすかに眉をひそめ、小さな(ほこら)のある方へ顔を向ける。 「またあなたですか。お庭では吹かないよう、大官さまからお達しがあったはずですよ」  ぱたりと音がやみ、植え込みの陰から顔がのぞく。すっきりした切り髪の少女が、明るく笑った。 「ごめん、誰もいないかと思って!」  短い袴をまとうすらりとした脚で、軽快に立ちあがる。  腰にさげた小刀が、守り人という彼女の身分を示していた。 「音が悪かった? それとも、美李は笛が嫌いかな」  節に(とう)を巻いた横笛をくるりとまわし、詩丈(しじょう)はにっこりする。山猫に似る引き締まった顔が人なつっこくゆるんだ。  巫女は落ちついた態度を崩さない。 「その調子は高すぎるわ。かすかであっても耳につくのです」  苦言を呈したつもりが、相手はパッと表情を明るくした。 「耳につくって、本当? 心にもくっつく?」  少しだけ高い目線で間近にのぞきこまれ、美李はあわてて身を引いた。  雪どけとともにやってきたひとつ年上の守り人は、どうにも変わり者だった。  つとめには熱心なものの、笛は吹くし、言葉も笑顔もふわふわしてつかみ所がなく…… とにかく、行きあうたびに美李の整然とした思考をかきまぜる。  面と向かうのは窮屈な相手だ、 「……奏楽のことは、よくわかりません」 と背を向けた美李に、カラッとした声がかかった。 「美李、心配いらないよ」 「えっ?」  唐突な言葉に驚き、美李は子供のようにふり返る。守り人は両手で笛を握って笑った。 「雨が降っても、恋が破れても平気。私の笛で、竜神さまを鎮めてみせるから」  呆気にとられた美李は、詩丈の瞳がとても薄い色をしていると気づき、それに気がつくほど相手を見つめてしまったことに居心地の悪さを覚え、今度こそ退散した。 「自分の笛で、神さまを鎮める? とんでもない高言ね」  布団の端に座りこんだ奈々は、灯火の明かりで髪を()きながら目を丸くした。  部屋には数名の仲間が眠っており、起きているのは二人だけだ。閉ざした戸の先、雨も風もない静かな闇を感じつつ、美李はうなずいた。 「不思議な人だとは思っていたけれど、そんなに大それた志を抱いているなんて…… あなたには、あの人がどう見えるかしら」 「どうって、不謹慎な笛吹き。こんな時なのに美李のこと煩わせるし、また大官さまに叱ってもらおう?」  不満げに口をとがらせる仕草は巫女にふさわしいとは言えなかったが、包み隠しのない表情は美李を和ませた。 「急がなくともいいわ。様子を見ましょう」 「美李が言うなら、そうする。けど、次に吹いてるところを見つけたら、指を笛に差し込んじゃうから!」  櫛をほうり出した奈々は、頬をふくらませついでに灯火を吹き消した。
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