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月は消え、塗りつぶしたような闇が朝を待つ。
神殿をとりまく回廊の一角でそろそろと戸が開いた。小さな影が這い出し、足音を殺して庭へおりる。
手さぐりで裏へまわっていくと、祠の下に青白い人影がしゃがんでいた。おぼろにぼやけた目鼻と力なく開いた口は、齢も性も示さない。
奈々は顔を引きつらせ、握りしめていた手を亡霊の面前に差し出した。
きらりと数粒の雨がこぼれる。
祭壇から盗んだ天の石だ。
それは地に届く途中で宙に溶けた。
影の顔がゆがみ、笑う。周囲の葉が透け、亡者の全身に不吉な脈を描いた。
今朝、詩丈に警告をした後のこと。
亡霊に呼ばれた奈々は、応じてはいけないと本能で理解しながらも、頭の中に響いた声を無視できなかった。
“汝が望み、与う”
「……私の、望み。美李を元に戻せる?」
ハッとして問うと、葉陰にうずくまった人影はぎこちなくうなずいた。
“供物を 我に”
亡霊の求めは、“天の石、四つ” だった。
祭壇から神のものを盗るという恐ろしい行為を、奈々は清掃にまぎれて実行した。
心臓は破裂しそうなくらい鳴っていたが、身体はいたって冷静に動き、竜の雨は驚くほどあっけなく手に入った。
亡霊は夜の中で力を取り戻し、ゆっくり立ちあがった。
あいまいな輪郭が定まってゆく。濃い霧を通して見るようではあったが、こけた頬とするどい目を持つ青年であるとわかった。
かすれた低い声が奈々に届く。
“天の竜、傲岸なる水神。我が怨みは去らず……”
彼は、神殿も建っていない古い時代を生きたと語った。
ある日、竜神が恋をした。
その相手は青年の許婚だった。神の想いは破れ、荒れ狂う水が彼らの命を奪った。
青年は亡霊となって彼女を探したが、再会できずにいるうちに、どこへ行く力もなくなってしまったという。
奈々は恐怖を忘れて同情した。
「そんなのひどい…… ずっと二人でいて、幸せだったのに」
大好きな人と永遠に引き離される。私もそうなってしまうかもしれない、と心が冷えた。
亡霊が口を開く。
“汝、秘事を欲するか”
「ええ、教えて! 美李を守れるならどんなことでもする」
“なれば受けよ。竜が棲まうは天の雲にあらず、現し身の魂なり”
奈々は目を丸くした。
「誰かの中に、竜神さまが隠れているの?」
透きとおった両手がゆらりとあがり、少女の顔を両側からつつみこむ。命の消えたまなざしに泥のような怨念が溜まっていた。
“竜の心を聴け。探しあて── 屠れ”
凍りついた奈々の耳に、澄んだ笛の音が流れこんできた。
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