後 

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 後 

「私の故郷はね、平野なんだ。井戸の他に小さな池しかなくて、日照りが続くとすぐに枯れちゃう」  石段の隅に腰かけた詩丈は、隣に座る美李へ笑いかけた。 「それでは、田畑を守るのが大変でしょうね」 「うん、だから水をもたらしてくれる竜神さまが本当に尊くて、憧れで…… どうしてもそばにいたくて、守り人になった」  ここ数日雨は減り、神殿も里も緊張をゆるめている。  詩丈も例外ではなく、庭へ出た美李を見つけると「少し話そう」と寄ってきた。巫女も守り人を拒まなかった。 「あなたは竜神さまに恋しているの?」 「ううん、どうかな。よくわからないや」  詩丈がはにかんで髪をかきまわす。恥じらいが乙女らしく頬を染めるのを見て、美李は自然と微笑んだ。  本堂から呼ぶ声がかかり、彼女はそっと立ちあがる。足を進めかけて、ふと詩丈へ尋ねた。 「この頃、奈々の元気がないの。何か知っているかしら」  守り人は一瞬ためらい、素直に答える。 「美李を心配してたよ。笛を吹いたりしないように言われた」 「まあ、あの子がそんな……」  巫女はしとやかに眉をひそめた。  大切な友人が心を痛めていることに申し訳なさが湧いてくる。それと同時に、笛の音が絶えていた理由がわかり、安心した。 「あなたは奈々の言いつけを守っていたのね。律儀なこと」 「ちゃんと里で吹いてたよ、腕は鈍ってない! 本当だよ、今吹いてみせようか」  あわてて詰め寄る詩丈。  必死な表情がおかしくも健気で、美李はかわいらしい笑い声をあげた。  守り人には見回りの時刻が迫っており、一曲奏する余裕はなかった。  しかし、山道へくだる彼女の胸はあたたかい。  美李が初めて楽しそうに笑ったからだ。  詩丈は、出会った時から彼女のことを人形のようだと感じていた。贄の巫女だと知り、いっそう深く案じるようになった。  少女の犠牲ではなく、得意の笛の音で竜神を鎮められたなら……  その思いはとめられず、山を仰ぎ川に添い、至高の調べを探しつづけてきた。  予想外に早く恋の雨が降りはじめ、まだ悲願ははたせていない。だが詩丈は、嬉しさを抑えられず口端をあげる。  間近に見たばかりの、美李の晴れやかな笑顔。  それは押さえ込まれてきたつぼみが一瞬でひらいたように華やかで、彼女の胸に刻まれた。  もっと笑っていてほしい。  美李のために、次の笛は持てるものすべてをつぎ込んで奏でよう。そうしたらきっと天に、その先にだって届く──  勢いをつけて階段を飛ばし、踊り場に降り立った時。  ぽつりと声がした。 「詩丈……」  守り人はハッとふりむいた。  踊り場の隅に奈々が立っている。両手を握りあわせ、じっと上目づかいになって言う。 「この前はごめんね。私、意地悪だった」  しおらしい言葉を受け、詩丈は警戒を解いた。 「そんなの気にしないで。だって、君は美李のことが好きで……」 「違うわ」 「えっ?」  奈々はおずおず歩み出し、少しずつ詩丈に近づいていく。ふれあうほどそばまでくると、握った手を解いてゆるやかにおろした。 「美李じゃないの。私……」 「な、奈々?」  詩丈が足を退く前に、小さな手が腰にまわされた。やわらかな身体がぴたりと合わさる。 「だめ。離して」  詩丈は首をふったが、奈々は彼女の背に片手を這わせる。見あげてくる瞳は黒々とした情念で濡れていた。  その時、とらわれた守り人は巫女の目にひらめく青白い影を見た。  生のない抜け殻の怨みを。  全身に忌まわしさが走り、相手を力一杯突き放す。  同時にシャッと硬い音がした。腰にさげていた小刀。奪われた──  己の迂闊に気づいた彼女の胸に、冷たい刃が突き立った。
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