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少し前のこと、僕らは事故に遭った。
季節は春を告げている。
彼女1人には少し大きすぎると思う程の無機質な白で染まった病室には一筋の夕陽が小さな引き違い窓からたった1つ、色鉛筆で描いたかのような赤橙色をして差し込んでいた。
それが部屋全体に広がるようにしていたお陰でそこに居る彼女を見つける事ができた。
昼間の空を連想させる色をした病衣に身を包み、普段は長く伸ばされたその髪を後ろで束ね、そこに夕陽を反射して光るかんざしを着けて窓の外を眺めていた。
”駄目じゃないか、窓開けっぱなしにしたら。風邪ひいちゃうよ?”
この部屋に入った時からなんだか肌寒いなと思っていたが今になってやっと気がついた。
いくら5月とはいえど陽が落ちてゆくこの時間からは寒くなる一方だろう。
しかし彼女はその言葉に動じる事無く、ただ空を眺め続けている。
「おかえり、待ってたよ。」と彼女は振り向かずに言った。
彼は彼女の横になっているベッドの横へと歩み寄った。妙に空気が重いのか歩きづらかったが、気のせいだと誤魔化していると彼女はやっとこっちを向いた。
彼女のまん丸とした右の頬を痛々しさが貫通して伝わってくる程大きなガーゼが覆っているのが少し見えた。
そして二重の目元はその部屋でも分かるほど赤くなっていた。
痛い、と小さな声をあげてその垂れ目を閉じ、傷を押さえる。
もしや、と思いその薄い布団を見るとやはり彼女の涙の痕跡らしきものが今いる場所にひとつ、その斜め前にもうひとつあった。
「その傷、すごい痛むのか…」
その言葉にそんな事ないよ、と微笑む君。
その笑みはやはりどこか不自然で、何かを我慢しているようにも見えた。
何故こうなる事を止められなかったのか、と自責の念に駆られる自分を見透かすかの様に彼女は”もういいの”と溶けそうな優しい声で呟いた。
事故で強く頭を打ってしまったのか、当時の記憶は僕には残っていなかった。それは彼女も同じ様だった。
それより見てよ、と呟き視線を移す彼女に引かれる様にして僕はより彼女に近づく。
彼女の眺める世界を一緒に見ていたかったのか、知らないが。
そこには一面、桜が咲き誇っていた。
人通りの激しいこの大通りに合わせて植えられたであろうそれらは、けれど確かな存在感を演出し絨毯の様に柔らかな、どこか懐かしいような、寂しいような世界を創り出していた。
雲ひとつ無い夕陽に照らされたそれは何だか、切なかった。
今、この時間がずっと続いてほしいと思った。
….どれほどの時間が経っただろうか。
茜色に照らされた彼女は視線を移したあの時から一度もこちらを見ていない。
それは僕も同じで、本当はその事にも今気がついていた。
すっかり下界の喧騒に見飽きた頃、思い出したかの様に彼女へと目を向ける。
その背中は、震えていた。
泣いているのを気づかれない様にしている、という事実に誰が気がつかないだろうか。
その傷のせいで、彼女はもう笑えなくなってしまったのだ。
でもそんな事関係ないよ、とまるで言うかのように振り返り、言った。
「桜、やっと見れたね。」
かんざしは夕陽を帯び、桜色のその形がよく見えた。
反面彼女の涙は影に包まれ、たった1人で滴った。
その崩れた笑みのひとつひとつが僕には懐かしく感じた。
桜の景色のことなんて忘れてしまう程、他の何よりも美しかった。
透き通っていた。
ずっと見ていたかった。
ずっと、ずっとその先も。
もはや部屋の寒さなんて忘れていた。
彼女の笑みはすぐに手の中に隠れた。
堰き止めていたものが突如無くなったかの様に涙は溢れる。
子供の様に泣く彼女の前で、僕は何もできなかった。
僕にはあの時、何かできなかったのだろうか。
きっとこの感情の正体は僕自身のエゴだ。この笑みをもう見ることはできないと知っただけで何故だかここまで我慢出来なくなってしまった。
もしも彼女の事を守れていたら。
傷一つ付けずに君と今も笑って桜を観ていられたら。
覚えてもいない過去を少年は恨んだ。
ーその時だった。
すっかり落ちてしまった陽に逆らうかの様にぽつり、と浮かぶ青年を見つけた。
小さな頃嫌になる程読まされた教科書の挿絵の中から飛び出してきた地蔵のような顔をした少年。白装束を纏っていた。
唖然とする彼をよそに少年は近づき、彼に囁く。
君は知りたいかい?と。
彼は呟く。
彼女を、救いたい。と。
少年は微笑み、まるで当たり前かのように言った。
「僕は神様なんだ。君が望むのならもう一度あの時に君だけを連れて行ってあげよう。」
彼はこの少年は本当に神様なんだ、と思った。頷けば間違いなく僕を過去に連れていってくれる、と。
思えば少年は明かりのついていないこの病室の中央にいた。暗いはずなのに彼だけよく見えた。
彼は泣いている少女を見た。
いつの間にか泣き止んでいた。そして初めに少年の浮いていた場所あたりを眺めていた。どうやら、少年は見えていないようだった。
後ろ姿のみの彼女からは憂いとの葛藤を感じた。何故だかは分からない。ただ、それを見て彼はコクリ、と頷いた。
少年は分かりきっていた様な顔をして、彼の手を取り
_夜空へと飛び出した。
あまりに急の出来事に無意識に彼女を探し、見つめる。もう病院のてっぺんまで見える程、離れた場所まで一瞬で来ていた。
しかし、そんな僕を彼女ははっきりと見つめ「いってらっしゃい」とかつての笑みを浮かべていた。
その瞬間、意識は溶けた。
暗闇の中で少年は僕に語り掛ける。
脳に直接、というのは本当にあるのかと思いながら意識をそっちへと向ける。
ーいいかい。君は今からたった1人だけあの時に戻る。事故に遭ったあの時__君の変えたい...とか言っていたあの時にね。ただ、どうやら君はなにも覚えていない様だから特別に事故の少し前から見せてあげよう。
少年は続ける。
ーただし、これは過去の出来事だ。
やり方によっては現実上有り得ないような事を引き起こしてしまうことだってある。それ程の神秘なんだ。
神隠しとかがその代表例だね、と少年は言う。
本当にこの神様は驚くような事を淡々と言う。それが余計に神様らしさ、を演出していた。
ーもしかすると君はそこで消えてしまうかもしれない。君が、ね。そうなったら君が行くのは「無」だよ。天国でも地獄でもない、何も考えられないようなそんな場所。これは過去に行く為の引き換え、代償っていうやつだ。
構わない。
ーよかった。ならば早速行こうか。
ちょっとまった、と彼は神に口を挟む。
きっととんでもない無礼者なんだろうけれど、言わせてくれ。
この神様は説明が少なすぎる。
だってよく見るタイムリープ映画だってもっと細かい、綿密な設定があったじゃないか。
ーどうしたんだい?
あくまで声しか聞こえていないが、少年は動じていないように感じた。
あまり質問攻めをしても悪いと思い、少しの時間をかけて疑問をたった一つに絞った。そうしている間に少年は先にその疑問を口にしてしまった。
ーあぁ、もしも過去の自分にあってしまったら?と思っているのかい。別に何も起こらないよ。宇宙が崩壊したり、もう片方が死んだりもしない。前例だって山程あるんだ。だから安心してくれ。
過去の自分が未来の自分に会った、という記憶は僕がそこだけ消しておくから。生きている間は勿論、死んだ後でさえも過去に干渉された事には気が付かないさ。
神隠しだってそうだろう?全部僕が消しているんだ。
なんて都合の良いお人好しの神様なんだ、と思ったが言わない。この少年に彼女の笑顔がかかっているんだ。
ーまさかそんなこと聞くなんて思ってもいなかったよ。
さぁ、行こう。少し遅くなってしまった。
そして再び彼の意識は明るみに引きずり出され、それに耐え切れず意識を失った。
目を覚ますと、そこは人通りの激しい商店街のような場所だった。雲ひとつない青空と騒がしい街並み。きっと明日も晴れだろう。
こんな所に行ったんだっけな、と周りをキョロキョロと見渡す。
そこには、見覚えのある血色の良いまん丸とした顔をした着物に身を包んだ彼女がいた。
みずき、と咄嗟に声を出しそうになったがそれは続けて起こった衝撃的な出来事に掻き消された。
オーちゃん、と呼ばれた着物の青年が彼女の手を掴み、時代を重ねて来たであろう重厚感のあるかんざし屋へと入っていった。
ーいざ自分を前にすると驚くものだ。それがまた意志を持って行動している、という当たり前の事実に鳥肌が立った。
異質なのは自分の方だろうに、と呟きその後ろから震える足を鼓舞しその店内へとついて行く。
そこまで広くないこの店舗は内装もやはり古めかしいものだった。少しの段差を誤魔化す為の坂道がある入口を登ると左右に大きな棚が1つずつ並んでおり、そこにずらりと置かれているかんざしはその量の多さから異世界を感じさせた。
2人がいるのは左側。その反対側で会話を聞く。過去の自分の会話を聞くなんてなんだが不思議な感覚がした。
「....でも僕はこれがいいと思うけどな」
「...まぁオーちゃんがそういうんだったらそれにする!」
にひっと微笑む彼女の息遣いが聞こえた。
「それに今から行くのに丁度あってるじゃん?」
「確かに〜それにすごい可愛いし。」
私が着けたらオーちゃん、どうなっちゃうんだろうね。と悪魔的とも言える笑みを浮かべながら言っていた気がした。
今聞くと、かなり恥ずかしい。
ただ、2人の姿をどうしようも無く見たい気持ちはとめどなく溢れ出てくる。早く買い物を終えてくれよ、と遂には願った。
2人はその後も耳が赤くなるようなセリフを掛け合うとそのかんざしを買い、店を後にした。
その後ろをゆっくりとついて行くと何やら店の前で直ぐに紙袋に包んでもらったそれを彼女は豪快に破いて取り出していた。
それを彼女は僕に持たせると、それをゆっくり、と髪に刺してやっていた。
桜色のかんざしだった。
「...すごく似合ってるよ」
彼女はそれを聞くなりにひ、と微笑み彼の頭を撫でた。2人を包む空気の流れは歩いてゆく他の客とは違かった。
それを眺める僕の頬を自然と涙が濡らしていた。
花見、楽しみだねと歩いてゆく2人の後ろをよろよろとついて行った。
何だか足に力が入らなかった。
その後、2人は商店街内の「私の行きたいお店」の全てを回り、おやつ時という事もあって沢山の都内名物を食べながら歩いた。
もうお腹いっぱいだし、そろそろ行こうか。と僕が提案すると彼女はまた微笑んだ。
そう、こんなに身近なものだったんだよ。
足の震えは増すばかりだった。
しばらく歩いて大通り。目的の公園まで残り少しらしい。
どうぞ楽しんでくださいと言わんばかりの快晴に花々が呼応していて、とても美しい。
人通りは公園に近づくにつれて増していった。だが2人の姿はよく見えた。ーというのも彼女の着ているピンク色をした桜模様の描かれた着物が一際目立っていたからだ___
___ぞくり、と悪寒がした。
2つ先の左側に公園入口へ続く歩道を構えるT字路。
僕らが事故に遭った場所だ。
突如、両目が重くなった。
理由は分からない。不可抗力の何かが景色を見ることを妨害してくる。
足の震えは一層確かなものとなった。
迫る予感、痛み、不吉な何かが足の震えを作っているのだろう、と思った。
それでもだめだ。逃げてはいけない。
僕はその人混みを通り抜けると、やっとの事で2人を見つけた。
数秒前とは大違いだ。ここまで見つけるのが難しいだなんて。
2人は「人混みではぐれない為に」手を繋いでいた。その隣に僕は立った。
離れちゃダメだよ、と声をかけているのが聞こえた。
___ひときわ身長の小さい彼女が簡単に道路へと押し出されてしまうと何故気がつけなかったのか。
ぐらり、と分かりきっていたように彼女の体は人の集まりから弾き出され、傾く。
突如として時間の流れが遅くなった。
そこに決まり切っていたようにトラックが死の音を立ててやってくる。
だが、その手が離されることは無かった。
彼の持つ最高の力を、今まで自分も気が付かなかった程の力をもって、彼はその手を引いた。
彼女の体は反転、勢いよく上体を起こした。
彼の体は彼女の位置と入れ替わった。
少女はそのまま人混みへと投げ出され、
少年の体は宙を舞った。
がすん、と鈍い音をたてて彼の体は吹き飛んだ。
何度か道路へと落下しては擦り傷だらけになり更に空へ放り出される。
それはまるで遠くに投げられたボールの様だった。
やがて、それは道路との摩擦で停止した。
彼女は歩道に倒れ込んだ。
レンガのその道に頭をぶつけ、頬から血を流す。
彼女が顔を上げるより先に僕は僕のいる所へと行く。
ー彼の足は信じられないほどねじ曲がり、身体中から血を流していた。目は開かれたまま動いていなかった。
どこか遠くを見つめていた。
逃げてなんかいなかった。
僕は彼女を護り切っていた。
涙が零れていた。
過去の自分を信じられなかった自責なのか、それとも自分が初めから死んでいたのか、という絶望からの感情なのか僕にはわからなかった。
震える足は、言葉に出来ない程に目の前の自分のものと同じ形をしていた。
僅かな期待はわかり易すぎる確信によって裏切られた。
その足を見たのを最後に、僕の目は開かなくなった。
だから次に聞こえた言葉が果たして彼が発したのか、それでも暗示のようなものだったのかは分からない。
ただ、僕はその言葉に突き動かされるようにしてその足に力を入れた。
前に進もう、としても前なんて見えなかったが。
ただ、僕はそっちが前だと信じ、進んだ。
"速報です。
本日午後3時45分頃御苑新宿門付近にて発生した交通事故について、現在大型車に撥ねられた身元不明の男性は高峰桜一さんだったことが分かっており、病院に搬送された先程死亡が確認されました。
他にも近くに居た女性1人が顔に軽い怪我を負ったとのことです。
では、次のニュースです___
______身体が何やら強い衝撃を受けた後、気がつくと目の前には僕がいた。
だから、感覚の消えた体を使って必死に言葉を彼に繋げた。
安心した。
君は泣いていたから。___
何も見えないまま、かつての僕の言い残した言葉に引かれるままに1日近くかかってここまで来た。
ここが僕にとっての終着点、目的地だと直ぐに分かった。
そのまま、ゆっくりと前に進む。大きな病院の様だった。その中でも一際高い所にある、
_”彼女しか見られない景色”のあるその病室へ。
そこに居る君へ、会いに行く。
廊下ですれ違う忙しそうなナースも僕の事を無視した。話題は事故の事でいっぱいだった。彼女は顔の傷よりも頭をぶつけたダメージが大きかったらしい。
死んだあの少年がここにいるとは誰も思わないだろうな。
そうして、やっと辿り着いた。
彼女1人のいる、この病室。
未来で桜を一緒に見たばしょ。
きっとこれは運命だったのだろう。神の手は悪戯に差し出されたものだったのだ。
その手を取ることも、ここで再び帰ってくることも、最初から決まっていたのだろうな。
諦めたようにその扉の中に入った。
彼女は、そこに居た。
長い髪はそのままで、とても暖かい部屋の中で病衣に身を包みただ1人、呆然と窓の外を眺めていた。
この無機質な白で染まった病室にはうっすらと、橙色の光が一筋だけ差し込んでいた。
それはまるで色鉛筆で描いたかの様だった。
届かないことをわかっていても、触れられないと分かっていても。
「みずき」
でも、その声は形をもってたった1つの「声」として彼女に届いた。
長い髪を揺らし、少女のように僕を見つめた。
見つめてくれた。
僕はその顔が見れなかった。
君の気配を感じるしか無かった。
彼女の顔はゆっくりと、でも確かに崩れていった。
どこか懐かしかった。
そうして少女は遂に堰を切らした様に泣いた。
この1日、溜まったままの涙は僅かな期待を残していた。まだ生きている、という期待を。でもそれを裏切られた今、それは彼女の中で確信に変わった。
泣いた。
彼女は泣いた。
何故だか僕の瞳からも涙が零れている気がした。
ゆっくりと、彼は彼女に近づいた。
倒れそうな、消えそうな体を必死に、前にだけ動かして。
死の直前、彼は僕に言った。
彼女を頼む、と。
自分の死がすぐそこまで来ているのにそんな事を言える僕を凄いと思った。
彼女へできないことは何も無いと思った。
彼は全てわかっていたような、そんな声だった。
見えない目で、触れられない彼女の頬をゆっくりと撫でた。
彼女の流れる涙を拭こうとした。
拭けなかった。
拭いてあげたかった。
彼女はそんな彼を見て涙を拭いてあげようとした。
拭けなかった。
拭いて欲しかった。
僕はもうこれ以上悲しまないで欲しかった。
それは昨日の事故を見てから今までの記憶を全て取り戻したから。
沢山一緒に笑顔になった事を、
楽しかった思い出を、
幸せだった毎日だけを覚えておいて欲しかった。
「...この傷、痛くない?」
必死に僕は悲しみの感情を誤魔化す様にして言った。
彼女は言う。
「大丈夫じゃないよ....ばか....」
ひっく、ひっく、とただでさえ息がしづらそうな彼女はこの言葉をきっかけに声を上げて泣いた。
また、泣かせてしまった。
この前だって、君に色々心配かけちゃったもんな、と彼は思った。
もっと心配かけてやりたかったな、と彼は思った。
彼はもう自分が消えてしまうことをわかっていた。
だからさ
みずき、
「君にさ伝えたいことがあるんだ。」
最期に、とは言わない。前に見た映画で愛し合う2人が遠く離れた場所に引き離されるシーンを見た時、彼女は泣いていてかなり驚いたのを覚えているから。
あぁ、もう見られないのか。
彼女は涙を流しながら頷く。その度に頬から涙が零れ落ちた。
「これからきっともう1回、僕が君に会いに来る。でもその僕は今の事も覚えていないかもしれないんだ。」
「でも、その僕にはこの事は何も言わないでおいてくれないか。」
「もう一度君の微笑みが見られるんだったら何度死んでもここに戻ってきたいから。」
本当は、もう1回見たかったな。
未来だとか過去だとかはあえて言わなかった。
彼女はこの先普通の人生を送って欲しかったから。
彼女は泣くことを止めていた。辛くても、彼に比べたらなんでもないと思ったのか、
いや、最期ぐらい泣いてる所見せたくなかったんだろうな。
そして彼女は枯れた声で”わかった。”と小さく返事をした。
それから少しの間、彼女は何も言わなかった。
じゃあ、もう行くね。
そう言うよりも先に、
彼女は『見て』と、一言だけ言った。
その言葉で、何故だか目は開かれた。
視界いっぱいに君の丸い血色の良い頬と、君の二重の瞳が映った。
そしてその髪には、あのかんざしが刺されていた。
夕陽が彼女のうしろで光っていた。
"最期にさ、見せてあげたかったの。"
彼女の声は言い終える前に歪んだ。
それを見る僕の頬には確かに、涙が映った。
そして、気がついた。
あの時、君は傷が痛んでいたから僕を見ていなかったんじゃない。
僕に悲しんでいる所を見せたくなかったんだ、という事実に。
「やっぱり、君は優しいね。」
僕の涙は頬を伝って、彼女の布団に染みた。
2人は手を繋いだ。
ふれあうことができた。
一緒に泣いた。
「次来る時は、今度は"2人で一緒に"桜を見よう。」
次が僕に来ないことはわかっていた。
彼女にはそれがばれないように、悲しませないようにしたかったのに、
__わかった。笑顔で迎えてあげるね。
彼女には全てお見通しだった。
「ありがとう。」
「ずっと君のこと、忘れない」
彼女の掴んでいた手はゆっくりと消えた。
夕陽は落ちかかっていた。
「ありがとう」の言葉を頭の中に反芻した。
その言葉は私の背中をこれから先押してくれそうな気がした。
ずっと見ていると言っていたから、私は何も怖くなくなった。
1人でこの先なんでもやっていけると思った。
彼が逝ってしまったのはよく分かった。
風が桜の花びらと共に飛んでゆくのが見えたから。それに私は君を乗せてあげようと窓を開いたのだ。”オーちゃん”がそれと一緒に空高くへと羽ばたくのが見えた気がした。
辛かった、でも彼にはそう思って欲しくなかった。
だから、次に来る君にはそんな私の姿は絶対に見せたくない。
最後まで私を頼ってくれた君の言葉を忘れない。
絶対に泣いたりなんかしない。
だから、いつでもここで待ってるね。
そうして彼女は再び夕陽を眺めた。
陽は落ちかかっている。
下では桜が鳥のように今にも散ろうとしていた。
寂しくなんかないよ、大丈夫。
でも、
”駄目じゃないか、窓開けっぱなしにしたら。風邪ひいちゃうよ?”
「おかえり、待ってたよ。」
私は、その声を待っていた。
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