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 年の暮れに入る、この時期。  朝だけはゆっくりと過ごせるようになって、セイはのんびりと外へ繰り出した。  この時刻は、通学通勤時間だ。  それとなく小中学生を見守りながら、若者はゆっくりとした足取りで、歩いていた。  その後ろから、愛らしい女の子の声が、体ごとぶつかって来る。 「セイちゃん、おはようっ。久し振りだねっ」  ついつい、歩きながら眠っていたセイは、我に返って振り返った。 「ああ、おはよう。朝から元気だな」 「うん。どこ行くの?」 「ただの散歩だよ。すぐ家に戻る」  並んで歩きながら、ランドセルを背負った少女は口を尖らせた。 「お父さん、心配してたよ。最近、遊びに来てくれないから」 「遊びに行ったこと、あったっけ?」 「眠るだけでも、お父さんは、嬉しいのっ。私だって、嬉しいんだからねっ」  見下ろした少女は、今年九歳になった、古谷(ふるや)家の一人娘だ。  小柄な少女なのだが、最近始めた柔道の為の体力づくりの影響か、ぶつかられると結構な衝撃がある。  下手な返答で、不興を買ってまたぶつかられるのも困るので、セイは少し考えて返した。 「これから、朝食でも戴きに行こうかな」 「うんっ、そうしてよっ」  嬉しそうな顔に対応の成功を感じ、若者は少し安堵したのだが……。  しばらく歩いて、不意に立ち止まった。 「? どうしたの?」 「いや、やっぱり、外で取ろうかな。気も紛れるし」  不自然な予定変更に、古谷綾乃(あやの)は顔を顰め、目も細めた。 「セイちゃん? 気を紛らす程、お父さんと会うの、嫌?」 「そうじゃないけど……」  誤魔化すにしても、不自然過ぎると感じ、若者は正直に言った。 「どうやら、厄介ごとが来たみたいだ」 「え?」 「心当たりが多すぎて、どの件の厄介ごとか判断できない」  こういう時は、一人になって出方を見るのが一番だ。  そう思っているセイは、綾乃を見下ろして微笑んだ。 「様子見が必要なんだ。君に害が及ぶかも知れないから、ここで離れたい。これで理由になるか?」 「……」  少女の顔が、心配で曇った。 「大丈夫なの?」 「分からない。君の方を狙いそうになったら、直ぐに助けるから、その心配はいらないよ」  その心配はしていないのにそう言われ、綾乃は渋々頷いた。  その頭を軽く叩き、セイは傍の喫茶店へと足を向ける。  その目立つ後姿を見送り、綾乃も学校へと足を向けたが、若者が入った店の前に、自動車が止まったのを見て、再び立ち止まった。  そんな少女に気付いて、知り合いの少年が気楽に挨拶して来た。 「綾乃、おはよう。どうしたんだ?」 「(ひじり)ちゃん、おはよう……うん、あれ……」  黒いランドセルを背負った、一つ年上の少年が、さされた方向を見て目を細めた。 「……何だろ、変な雰囲気だな」  黒いワンボックスカーから、数人の男が静かに飛び出し、喫茶店の扉を開く。  何かを投げ入れた後すぐに扉を閉め、内側から開いた扉の中から、誰かを引きづり出した。  引きづり出されたその人物を見止め、二人の子供は息を呑んだ。  綾乃が、思わず走り出す。 「綾っ、駄目だっ」  聖が我に返って追いかけるが、どちらも間に合わなかった。  ぐったりとした、金髪の若者を乗せた自動車は、既に走り去り、肩で息をする少女が立ち尽くしていた。 「何だ、どういうことだよ?」  呟いた聖は、違和感を覚えて、喫茶店の方に目を向けた。  妙に、静かすぎる。  無意識にポケットからハンカチを取り出し、扉のノブに手をかける。  ゆっくりと開いた扉の内側から、薄い煙が外に漏れる。  ガスではない、不思議な匂いが鼻を衝く。 「まさか、何かの薬か?」  聖が青ざめた。 「で、電話っ、警察に電話……」  塚本(つかもと)聖は叫び、綾乃の手を握って走り出した。  今まだ残る公衆電話にお金を入れ、番号を押す。 「大変ですっ、お店で、薬がまかれましたっ」  相手が出た途端まくし立てると、相手は沈黙した後、静かに答えた。 「聖? お前、学校はどうした?」 「へ? 父さん? 何で……」  目を瞬いて呟き、聖はとんでもない失敗に気付いた。 「ああっ、間違って、家にかけちゃったっ」 「聖ちゃんっ、間違え方、おかしいよっ」 「父さん、御免、110番しないと。切るね」  取り乱したまま言う息子に、父親は呆れた声で言った。 「110番は、赤ボタンを押せば、通話は無料のはずだ」 「そ、そうだったね。じゃあ……」 「聖、学校をさぼって、どう言う騒ぎに、巻き込まれてるんだ?」  呆れた声の父親に、聖はすがるように答えた。 「若が、誘拐されたんだよっ」  電話口で、男が息を呑む。 「若が? 確かか?」 「うん。綾乃が、喫茶店に入るのを見てるし、その後僕も、連れ去られるの、見た」 「……」 「お店の中、薬で充満してるんだ。警察呼ばないとっ」 「いや、待て。まずは、119番だ」  冷静に、父親が告げた。 「場所は何処だ? こちらから連絡を入れておこう。お前たちは、直ぐにその場を離れて、学校に行きなさい」 「で、でも……」 「セイちゃん、大丈夫なんですかっ?」  必死な綾乃の声が、親子の会話を遮った。 「綾、大丈夫だよ。あの人、意外に頑丈だし」 「でも……」 「聖の言う通りだ。心配ない」  塚本氏が、電話の向こうから優しく答えた。 「あの人の事なら、心配ないが、それよりも、心配しないといけない事がある」 「?」 「この事を、側近方には、知られてはならない」  子供二人が、はっとして顔を見合わせた。 「問われて隠すのは難しいが、訊かれるまでは、黙っていなさい。分かったね?」  そうでなければ、この地を揺るがす騒動になりかねないと、塚本氏は真剣に言いつのった。 「わ、分かりました」 「学校へ行きなさい。遅刻の言い訳を作って、電話しておくから」  大人の言葉に頷き、子供たちは電話を切った。  心配しながらも学校へ行き、いつも通りに過ごした。  その後、とんでもない騒動に発展するなど、予想も出来ないまま。
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