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事情を知らないままだったあの時、反論しようと口を開く前に、セイは首を傾げた。
「そんな状態のエンを置いて来た時点で、あんたもそのまま放って置く気じゃ、なかったのか?」
そう言われて、蓮は青くなった。
図星、だったからではない。
留守を頼んだ者の、方向感覚を忘れていたのに、気づいたせいだ。
「あんたな、オレや婆さんを、この件で責めるのは仕方ねえが、葵は責めるなよ。あいつがいなかったら、オレが戻った頃には、エンはここにはいなかった」
慌てて戻った蓮が探し出した時、山の奥の方で半泣きになった葵を、エンは戸惑いながら宥めていた。
「方向音痴はあいつも知っていたが、まさか、自分の住処の山でまで迷う奴とまでは、思ってなかったらしい」
その後、元の状態に戻るまでには時間がかかったが、元々働き者だったのだろう。
自失状態は、意外に早く溶けた。
「食事の後の片づけから始まって、オレたちの留守中の掃除もしてくれるようになって、今じゃあ、家事全般を任せてる」
「そこまで回復してるのに、何で、姿を見せないんだ?」
「あんたが、あいつを死んだと思い込んでたのも、理由の一つだと思うぜ」
雅が、声を詰まらせた。
「それは、仕方ないだろっ。あいつ、看病しようとするこいつを、締め出したんだぞ」
絶望が頭を支配したエンは、雅の心配を拒否した。
その時点で、弟子としても女としても役立たずだと、雅は引くしかなかったのだ。
「あいつにそれ聞いた時、タコ殴りにしてやったからな、ミヤ」
「え、本当にしたの?」
力強く言うメルに、驚いて訊き返してしまう雅に、蓮が冷静に答えた。
「あいつが、こらえきれずに反撃する前に、止めさせたがな」
反撃したら、女の命が危ない。
その時にはすでに、そこまでその負傷が変化していた。
「ん? 変化?」
「これも、戻ることを躊躇った、一因だと思うんだが……」
蓮は、どうそれを説明するか考え、ちゃぶ台の真ん中に置かれた、籠に山盛りの小さなミカンを一つ手にした。
前触れもなく、雅の方へと放る。
宙に浮いたそれを、雅は反射的に受けようと、手を伸ばした。
すかさず、そんな女に若者が注意する。
「潰すんじゃねえぞ」
「馬鹿にしてるのか。それ位の加減は、出来る」
返しながら、雅はうまい具合に、ミカンを受け止めた。
「まあ、それが普通だな。だがな、見とけよ」
蓮は、その結果に頷いてから、もう一つミカンを手に取り、おもむろに放り投げた。
そのミカンは、丁度障子を開けて、盆を右手に乗せ直した、エンの前に行った。
男は目を見開いて、反射的に左手を掲げる。
途端に、ミカンが無残につぶれてしまった。
その汁に驚き、盆を取り落とそうとする前に、若者はその盆を受け、唖然と見守った雅に言った。
「こう言う状態なんだ。四、五十年前から」
「そんなに、前から?」
「ああ。お蔭でな、今なら、かなり高値のはずの食器の類を、ガラクタにされちまった。これ以上、オレとしても物を壊されたくねえんだ。出来れば、熨斗つけて送り出したい気分だ。持ってってくれるか?」
突然の提案を、女は潰れたミカンと、後ろめたそうにするエンを見比べながら聞いた。
まだ考えがまとまらない雅を見返し、エンが気を取り直して咳払いする。
「送り出すって、セイに返されるならまだしも、この人はオレと何の係わりもないのに……」
「係わりない? お前、本気で言ってんのかよっ」
メルがつい声を張り上げた。
「そりゃあ、諦めは早かったけどさ、お前の事は、この数十年、故人として悼んでたんだぞっ」
言わないでくれ……雅は、メルの真剣な主張に、頭を抱えてしまった。
故人と思い込んだら、直ぐに切り替えてしまうのは、昔からだ。
それが誤りであると、確かめる術はあったのに、それをしなかった自分にも非はあった。
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