だいすきよ。

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だいすきよ。

どこにも(しるべ)はなくて、でも、それを探し続けていた。涙は出てくるのに君の存在を感じられなかった。 「籠に入った人間は直ぐに死ぬんだ」 この言葉が父の口癖で、私はいわゆる暴力の被害者だった。時には熱の篭ったアイロンで腹を殴られたりした。痛みと言うより、一種の絶望と諦念が私を覆い尽くしていた。 学校もまた地獄でしかなかった。水をかけられることはしょっちゅうで、私は噛みちぎられた饅頭のように潰れきっていた。暴力の対象になった理由は分からないが、何かの気に障ったのだろう。小学生の暴力はねちっこく、それでいて狡猾だ。彼らは先生の前では、いかにも優等生であった。私はその逆で、先生にすら煙たがられていた。 涙はとうに枯れきっていた。 「割り箸さん。」 「何?葉隠くん」 それでも、私に優しくしてくれる友達がいた。名前は葉隠くん、と言っても本名は知らない。隣の学校でよく出来た子という噂で彼を知っているだけだ。 「どうしていつも図書館に来るの?」 「……それは本が好きだからだよ」 図書館なんて好きじゃない。それでも足繁く通うのは、暴力を受けなくてすむ場所の一つで、ここによく葉隠くんが来るからだ。私は彼に、暴力の事実を伝えていない。彼と対等である為にはそうするしかないのだ。これしか手段を知らないのだ。 「ふーん。やっぱり変な人だね。僕なら本を読んでたら、20秒で寝れちゃうね」 「そういう葉隠くんはなんでここに?」 「君がよく来るからでしょ」 「……ふーん」 小学生というのは、何も知らないようで意外と知っていることが多いと私は思う。この気持ちの原因くらい、私でも分かった。 私たちが出会ったのは、奇跡としか言いようがない。幼稚園の時に将棋クラブに通っていなければ、図書館ですれ違った時、何も起こらなかっただろう。本名は忘れてしまっていたが、その美しい顔貌は忘れられない。よく名前を忘れられたなと後悔する。 「学校はどう?葉隠くん」 「んー?いや普通だよ。たいして不自由もないし」 「友達は大切にするんだよ。これは約束」 「出たよ。割り箸さんの上から目線」 「これはアドバイス。友達がいないと不便だよ」 私は1人もいないけど、なんて言葉は付け加えなかった。彼には幸せになって欲しかった。私が今まで接してきた中で彼は、唯一暴力に訴えかけてこなかった。唯一は言い過ぎたかもしれないけど、それくらい貴重な人だった。 「へいへい、分かりましたよ割り箸さん」 「よろしい。エッヘン」 「……やっぱり変な人」 彼が私の名前を割り箸さんと呼ぶ理由は、一生の秘密だ。 「遅かったな、グズ」 「……ごめんなさい」 家に帰ると、汚いリビングの前にうずたかく酒が積まれていて、その中のほとんどが栓を開けられていた。 「注げ」 「はい」 いつものようにコップに酒を注ぐ。この消毒液のような匂いにも慣れてしまった。この後に起こることも。 「なんだその目は……お前も死んだあいつと、あいつと同じ目をするのか!!」 胸倉を掴まれ床に叩きつけられた。その後は殴られ暴力のフルコースが始まる。それらを堪能すると、私は彼の事を考える。今頃、彼はお風呂にでも入っているのだろうか。それとも、美味しい食べ物を食べているのだろうか。その両方とも私にはないものだった。嫉妬ではなく、ただ彼の幸福を願っていた。 「早く食べろよ!」 「うぶっ」 次の日に私は学校の体育館裏で、私は土を食べさせられていた。体育館裏は恋の聖地であると誰かが言っていたが、人それぞれでしかないと思う。場所の思い出を決めるのは、他人ではなくて、自分なのだから。 そんな日々を送っていたら、当然顔は痩せこけ、傷跡がつく。そんな日は図書館には行かない。彼にはいつでも、『成功している私』を見せたかった。彼に拒絶されるのだけは、嫌だった。 涙はとうに枯れきっていた。 「割り箸さん。寝ちゃったの?」 「……」 「……ごめんね」 私は図書館で寝たフリをする。幸福と不幸のジェットコースターを受け続けると流石に疲れる。寝ると父の蹴りを受けるから、寝る事自体に恐怖を覚えるようになっていた。疲れを癒す方法は彼だけだった。 そしてその彼は亡くなった。寝たフリをした翌日に彼は命を絶った。いわゆる自殺と言うやつだ。私はその事実を彼の母から聞かされた。どうやら私は、彼にとって唯一の友達だったらしい。彼もまた、私と同じ境遇だったのだ。こんな馬鹿げた物語があるか。ふざけるな。笑うな。こんな、こんな突然に人の命が━━━━━━━━━━━━━━━ 「これは息子があなた宛にと。」 彼の母は無機質な目をしていて、漠然と、彼は愛されることに苦労したんだなと感じ取る。あの目は、ベクトルが違えど私の父と同じ目だった。 その紙は、不器用なラブレターだった。 『これを読んでいるということは、僕は死んだということです。悲しいですね。今あなたは泣いていますか?だとしたら嬉しいです。僕が何かを残せたということですから。』 手紙は続く。 『簡単に言うと、あなたに憧れていました。それもとてつもなく。あなたは常に完璧で僕の知らないことを沢山知っています。』 手紙の字は崩れていて、指先の震えを感じ取れた。 『僕はあなたに釣り合えるように、頑張って努力しました。でも、ダメでした。あなたと僕では、埋められない差があります。』 違う。違うのだ。私はそんな人間じゃ━━━ 『これ以上いわれのない暴力は辛いので、僕は死にます。あなたがただ幸福であることを願います。死ぬのは、一瞬ですから』 私はこの手紙を破いて、ゴミ箱に叩きつけた。 涙はとうに━━━━━━━━━━━━━━━ 彼の唯一の友達ということもあって、私は葬式と火葬に参加することになった。周りには、悲しむふりをした彼の友達もどきが沢山いて、震えが止まらなかった。彼の母も悲しむフリをしていた。私は、1人だった。 簡単な焼香と一礼を済ませると、火葬場に移動した。初めて訪れるその場所は薄暗く、人の死が濃厚に漂っていた。 周りには彼の残した何者かがいたが、彼らの虚言は私の耳には届かなかった。耳が彼らの言葉を遮断していた。彼らの言葉に価値などなかった。 そうして焼かれて、雪が沢山降り積もるかのように、灰と骨がお目見えした。私はそれをトングで取り、遺骨箱に詰める。匂いはあのアルコールよりも強く、私の鼻を脅かした。 そうして機械的に解散の声が掛かると、彼らは何の躊躇も持たずに帰って行った。いっそ清々しい。彼は、何のために生を受けたのだろうか。 私は標を失って、家に帰った。父の靴はなく、いつもの賭博をしに行ったのだと解釈する。 そこで私は初めて、声を憚る事なく泣いた。私は籠に入った不自由な人間だった。何故か今だけは笑えた。 今から私は、あなたに会いに行こうと思う。 その言葉を聞くために。 そして
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