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父が亡くなった日の記憶は薄い。
俺はその頃一番のかき入れ時だった。
ふと気づいて久しぶりに家に帰ると、妻が目を真っ赤に泣きはらし、俺に向かってつぶやくように言った。
「やっぱり、ダメだった」
そうか、と俺は上着を脱いでハンガーにかけた。上着はここのところ徹夜が続いた際にずっと身に着けていたせいですっかり、前かがみの姿で形が残っていた。
「何度も連絡入れたのに既読つかないし」
すまない、心配かけて、と俺もつぶやくように言った。
少し前から分かってはいたのだ。
父は細かく入退院を繰り返していた。そして俺が尋ねるたびこう答えるのが常だった。
「だいじょうぶだ」
俺はそのことばを信じた。信じようとしていた。
自分の子どもには伝えたくなかった。
自身がだんだんと弱っていく様を、見せたくはなかった。
いや本当は、見守ってほしかったのだろうか?
父も同じ気もちだったのだろうか?
その彼を短い文面で呼び帰らせようとした、その父も?
憂鬱というものはいつも曖昧な想いを境界線にして、俺の前に立ちふさがる。
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