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―― チチキトク スグカエレ
実際にこの文面を見たのはずいぶん昔のこと。自分がまだ小学校に入ったばかりの頃だった。
俺が学校から帰ると、父が珍しく、難しい顔をして玄関先に立っていた。
その頃の父は特に定職もなくフラフラしていた、そして根っからの能天気な人だった。だからそんな顔をしていたこと自体俺には意外だったのだが、その上、父がツイードの一張羅を着込みネクタイまでしていたので、家のすぐ手前で完全に足が止まってしまった。
「なんなの?」
ただいま、は? といつもならば父か母から厳しくしかられるのが常だったのに、その時思わず出たひと言には、父からも、続けて玄関先から顔を出した母からも何も咎められなかった。
ぽつりと父が言った。
「ちょっと、出かけてくっから」
かすかに、生まれ故郷のなまりが残っている言い方だった。
母が重たげなボストンバッグを持ち上げて、外に出した。
父は振り返り、そのバッグをひょい、と持ち上げた。
母と二人きりの夕餉時、ようやく母が届いたという電報を見せてくれた。
電報というものを見たことがなかった俺は、手書きのカナ文字をたどって、声に出してみた。
そしてどういう意味なのか母に尋ねた。
なんでも父の父、つまり俺の祖父が今にも死にそうだということで、祖母が電報をよこしたのだそうだ。
当時、我が家にはすでに電話はあったが、父の実家は北国の山村にあって、まだ個々に電話を引いている家はなかったらしい。
右肩上がりの少しクセの強いペン文字が、目の中に焼き付いた。
『実のおじいちゃん』という存在にはそれまでに二度しか出あっていなかった。
母方の祖父は俺が生まれる遠い昔にすでに亡くなっていた。そしてもうひとり父方の祖父については、父の故郷が遠くてなかなか行くことは叶わなかった。
そんなに大事な時なのにどうして自分を連れて行ってくれなかったのか、俺は母に問いただした。母は
「だって電車で何時間もかかるんだよ? 帰って来られるのは来週になっちゃうだろうしね。アンタは学校があるでしょ?」
そうつっけんどんに答えて、刻んだ沢庵を冷えたご飯に乗っけて、お湯をかけてざぶざぶと口の中に流し込んだ。
父はそれからちょうど一週間して帰ってきた。
玄関先に入ってきた時にはすでにネクタイを外し、襟元を大きく開けてすっかりくたびれた顔をしていた。
「大丈夫だった」
そう苦笑いして父は頭を掻いていた。
祖父はピンピンしていたらしい。
それから半年もしないうちに祖父はあっけなくあの世に旅立った。
父はその時、葬儀には何とか間に合ったようだった。
「一年に二度もうちに帰るなんてな……」
喪服のまま帰ってきた父はそう言ってまた、頭を掻いていた。
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