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春ちゃんは私のペースに合わせて、ゆっくりと登ってくれた。それでも、階段はキツい。
息が上がって、汗は噴き出し、足があがらない。
少しひらけた階段の踊り場のようなところで、春ちゃんは足を止めた。
「水分補給しましょう。暑かったらすぐに上着は脱いだ方がいいですよ。冷えてきたらすぐに着る。体温調節、それが登山の基本です。面倒ですけどね」
お茶を飲んでレインウェアを脱ぐと、ふたたび歩き始めた。
一歩一歩踏みしめながら、はあはあと息を吐く。こんなに苦しいのは、小学校のマラソン大会以来かも。
わざわざなんでこんなに苦しいことしてるんだろう。私は登山をすることに後悔し始めていた。
かといって、ここで帰りたいなんて春ちゃんには言えなかった。重い足取りで、歩を進める。
あと山頂までどのくらい?
ねえ、何歩あるけば頂上に着くの?
彼女の背中に問いかけても、答えは返ってこない。
――3日後には30歳になるっていうのに、なんでこんなことしてるんだろ。
私は結婚というゴールに向かって、順調に歩んでいるつもりだった。
ある日突然、雷鳴が轟き結婚という名の山の頂から突き落とされ、地底へと転がり落ちたのだ。
傷だらけになった私に、もう立ち上がる気力が残ってはいない。
彼は人懐っこくて、人を笑顔にさせるのが得意だった。山の知識も豊富で、一緒にいると時間を忘れて話し込んでた。私はそこまでしゃべる方じゃないのに、なぜか彼とだと話が弾んだ。
オートキャンプ場でテントに泊まった時、焚き火ごしの彼の笑顔を眺めて、こんな人とずっと一緒にいられたらといつしか願うようになっていたのに。
そんな彼が、もうすでに誰かのモノだったなんて。
彼の服は、靴下は、奥さんが洗濯したもの。
彼が食べた食事は、奥さんが料理したもの。
彼の半分は、奥さんが作ったモノでできているといっても過言ではない。
そう考えただけで、もう耐えられなかった。
「ごめん、妻とは別れるつもりだったんだ」
じゃあなんで、2人目が生まれるの?
信じようとしたけれど、偶然出てきたインスタのアカウント。彼の人差し指を握る、ちいさな指。生まれたての新しい命。
守るべきものがあるのに、なんで浮気なんてするんだろう。
知らなかったとはいえ、自分が不倫をしていたなんて。
……目の前に見える木道がぼやける。
私は手の甲でゴシゴシと目をこすった。
山に登るからとしっかり塗った、日焼け止めが目に染みて涙が止まらない。
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