キミが僕の名前を呼ぶために

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キミが僕の名前を呼ぶために

 帝国には皇室主催のパーティが幾つか存在する。  そのうちの一つである『建国記念』のパーティで、皇太子殿下がエスコートしたのは婚約者ではなく、下級貴族の娘だった。  皇太子殿下と共にホールに入室した令嬢を見、ホール内はざわめく。ざわざわとあちこちで憶測が飛び交い、そして人々の視線はひとりの女性へと集中した。  彼女は手にしていた扇で口元を隠し、皇太子殿下と令嬢を見ている。会場の空気が張り詰めるのを感じながら、ノクスはひとりフルートグラスを手に持ち、壁の花(男だが)を決め込んでいた。  これ以上ない見世物だからだ。  皇太子殿下と共に現れたのは、メイディとか言う名前の子爵令嬢。 レモンイエローの髪に、はちみつ色の瞳の可愛らしい顔立ちをしている。年頃は皇太子殿下と同じかひとつふたつ下だったはずだが、顔立ちとドレスのせいで年齢よりも更に下に見えた。  対する皇太子殿下の婚約者である女性は、公爵令嬢だ。帝国の双翼と謳われる二大公爵家のひとつの唯一の子女。そして、この国で一番高貴な令嬢である。  そんな女性を袖にし、下級貴族にうつつを抜かす皇太子殿下は何も考えられない阿呆か、恋に狂った能無しか。  状況次第で皇位継承権の行方が変わる。そのことを、わかっていての行動なのだろうか。  そんなことをツラツラと考えながら、ノクスは手にしていたグラスに口をつけた。  ノクスにすれば皇太子殿下が阿呆だろうと能無しだろうと、特に問題はない。  冷めた瞳でホールの中央で踊る皇太子殿下と子爵令嬢を見る。誰もが遠巻きにする中で、もう一人の当事者である公爵令嬢が動いた。彼女はドレスと同じロイヤルブルーの靴を鳴らして歩みを進める。そして彼女が皇太子殿下と子爵令嬢の前まで来た時、踊っていた二人は勿論、鳴っていた音楽までもが止まった。  ふ、とノクスの唇から震えた息がもれる。まるで歌劇のクライマックスのようだった。 「殿下、こちらのご令嬢はどなたでしょう」 「ーーウォード令嬢」  するり。皇太子殿下は、子爵令嬢を背に庇うように一歩前に進み出、公爵令嬢と対峙した。  くっ、と噛み殺しそこねた笑いがもれる。  まるで悪役と対峙するかのようだ。ーーまだ彼女は何もしていないというのに! 「パーティのエスコートが、というような小さきことを申すつもりはありません。が、私の記憶が正しければ、この婚約は皇室から申し入れがあったものだと思いますが」 「それは、」 「違うんです! アウローラ様! わたしは、決してシヴァ様をアウローラ様から奪おうと思ったわけでは」 「誰が、貴女の発言を許可致しましたか」  室温が下がる。  空調設備は完備されているホールに、人が集まっているのだ。本来ならば暑くてもおかしくないにも関わらず、ホールの室温は下がるばかり。  公爵令嬢が物理的に何かをしているわけではなく、ただ、彼女が漂わせる圧力がそれを成していた。  自分が間違えたことを突きつけられた子爵令嬢は、顔を青くして黙り込む。それに満足気に微笑むと、公爵令嬢はその笑みを皇太子殿下に向けた。  麗しい笑みだ。だが、可憐とは程遠い。  目の前で自分に向けられている皇太子殿下はひしひしと感じているだろう。  自分は、今、恐ろしき獣に目をつけられているのだと! 「皇室は、ウォード家を蔑ろにしたという理解でよろしいでしょうか」 「ちがう! そんなつもりは、」 「ならば、これは私個人への侮辱ですか」  皇太子殿下の顔は、もはや青白いを通り越して土のような色になっている。  なるほど、なるほど。皇太子殿下は能無しだったようだ。 「詳しいお話は、後日。これだけの大衆の前でなさったことです。 ーーきちんと、納得のいく、対応をしてくださると信じております」  言葉に形があるならば、その鋭さで彼女は皇太子殿下をズタズタに引き裂いただろう。  青白い顔で黙り込んだ彼らを一瞥し、公爵令嬢はくるりと体の向きを変え、遠巻きに様子を伺う者たちに向き直った。 「パーティを中断させてしまい、申し訳ございません。引き続きお楽しみくださいませ」  一寸の隙もないカーテシーを魅せ、公爵令嬢はやわらかく微笑む。下がった室温が戻ったような錯覚を体験した後、楽団が音楽を再開し、人々は意識を取り戻したように近くにいた人との談笑を楽しみだす。  公爵令嬢はその様子を見届けた後、青みを帯びた長い黒髪をなびかせてホールに背中を向ける。足音もたてずに退室する彼女に、意識を向けるものはいない。  ただ一人、ノクスを除いて。  ノクスは手にしていたフルートグラスを、近くにいた給仕に渡す。頭を下げて受け取る給仕の男にひらりと手を振って、公爵令嬢の後を追うようにホールから出た。  扉をくぐる際に、中を振り返る。  立ち尽くす皇太子殿下と子爵令嬢に、笑みがこぼれる。 「ありがとう」  ーーアウローラを手放してくれて。  ノクスの呟きは、楽団の奏でる音楽に弾かれ、空気に溶けることなく床へ落ちた。
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