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バァンっとけたたましい音と共に、ノクスの執務室の扉が開かれた。次いで聞こえるカツンっというヒールが床を叩く音に、ノクスは唇を弧にする。
向き合っていた書類から顔をあげれば、そこにいたのは先日のパーティで当事者だったウォード公爵令嬢がいた。
「随分と機嫌が良さそうだな」
「そんなことを私に言うのはお前くらいだぞ、ベネット補佐官」
白いブラウスに足首までの濃紺のスカート。帝国が定めた制服に身を通した彼女に、どうやら事は上手く運んだらしいと知る。
「軍部に返り咲いたのか。ウォード大佐殿」
「ベネット補佐官もご存知の通り、『婚約者』は必要なくなったからな」
ふん、と鼻でひとつ笑うと勝手知ったると言わんばかりに彼女は執務室に足を踏み入れる。そして当然のような顔で、部屋に設備されているソファへ腰掛けた。
「皇太子殿下はどうなった? 廃嫡か?」
「知るか。その辺りは父上達が話をつける」
「キミの話だろうに。蚊帳の外でいいのか」
「政治の話なぞつまらん。興味ない」
「そのキミが、政治の話を汲んで皇太子殿下の婚約者をしていたかと思うと、涙が出るな」
デスクにペンを置き、立ち上がる。そして彼女の横へと腰かければ、彼女はにんまりと笑みをノクスに向けた。
いたぶりがいのある獲物を見つけた、獣に似ている。
「私が肩書きだけでも『他人の物』になって寂しかったか? 」
「まさか。……少しばかり、国策でしている事業を止めてやろうかと企てたくらいだ」
「やめろ。ベネット家のお前が言うとシャレにならん」
「企てただけで実行に移していない分、父様より優しいと思うが」
「ベネット公爵と比べだしたらキリがないだろう!」
考えたくもない、とソファの背もたれに背を預けるアウローラ。令嬢らしさなぞ欠片もないその姿を、ノクスは満足気にながめる。
パーティで見たような、あからさまな猫を被った令嬢らしいアウローラなぞ、らしくなさすぎる。
ノクスにとって、アウローラは幼なじみの令嬢だった。
帝国の双翼。武のウォード公爵家と、智のベネット公爵家。
生まれた時間こそ違えど、生まれた日が同じだったノクスとアウローラは、母親同士の仲が良いこともあって気づけば半身のように育っていた。
何となく、ずっと一緒にいるのだと。
根拠もなく信じていた。
それが自分に都合のいい妄想だったのだとノクスが悟ったのは、十歳の時だ。
母が『ローラさん、婚約が決まったそうよ』と嬉しそうに笑い、父が『ノクスの婚約者も探さないとな』とひとり頷いた時。
アウローラが『こうたいし殿下との、婚約がきまった』と律儀に報告してくれた時。
ノクスは、自分の体がガラガラと崩れ落ちた気がした。
何にショックを受けたのか。
何が悲しかったのか。
何が辛かったのか。
触れたくないことでも、知らなければいけない。
それは改善を求める人間なら当然のことであり、ベネット家の人間であるノクスにとっては最早習性に近い。
何故、なぜ、ナゼ。出てくる全ての事象に『なぜ』を叩きつけて掘り下げていく。
そこまでしてようやく、ノクスは自身がアウローラを好いていることを自覚したのだ。
ノクスが自覚した時、アウローラは既に他人のものだった。手を伸ばすことが許されない事実に唇を噛み締めながらも、ノクスは耐えた。
ただ、アウローラの良き幼なじみであることに徹した。
そんな矢先に、皇太子殿下の『やらかし』だ!
世界の創造主たる女神は、ノクスを見捨ててはおらず。死後に女神の傍へ仕えるために天へ昇ったとされる初代ベネットは、末裔たるノクスを愛してやまないらしい。
「アウローラ」
「うん? なんだ」
名を呼ぶ。
彼女が婚約して以来、初めて喉をふるわせた彼女の名前は、自分が思うよりずっとやわらかく響いた。
オレンジ色の瞳から視線を外さず、ノクスは彼女の手に触れる。武を司るウォード家の人間らしく、鍛錬を欠かさない手だ。貴族女性らしい柔らかさはなくとも、自分の手に比べればずっと細くしなやかな手。
その手を、強く握る。
「僕のものになって欲しい。肩書きだけではなく、キミの全てが欲しい」
「……向こうの不祥事とはいえ、婚約を解消された女だ。ベネット家の後継であるお前の名に傷がつく」
「キミがここで頷かなければ、ウォード公爵に金を渡そう。ーーウォード公爵は金に目が眩んで娘をベネット家に差し出した、なんて噂が流れてしまうな?」
「私を脅す気か」
グッとアウローラの眉間に皺が寄る。声に鋭さが宿るが、ノクスはそれを笑みひとつで受け流した。
「まさか。欲しいものに、相応しい対価を差し出すだけだ。第三者がどう受け取るかなんて、僕には関係ない」
「ベネットの後継は、金を積んで女を買ったと言われたいのか?」
「金を積むだけでキミを買える男が、帝国にどれだけいる? 僕の名に箔が付くに等しい」
「ーーウォード家の女は、自分より強い男にしか嫁がない」
「つまり、キミが求婚に頷くしかない状況にすれば僕の勝ちということだな?」
皇太子殿下はアウローラより強くないのに。そんなことが脳裏を過ぎったが、ひとまず置いておく。
そして確認のために問えば、苦虫を噛み潰したような顔をしたアウローラが頷いた。
言質はとった。ならば、あとは逃げ道を埋めるだけだ。
立ち上がり、デスクの上にある側仕えを呼ぶための鈴を鳴らした。すぐに側仕えがやってくるだろう。
「ーーベネット補佐官」
「悪いが、今日は帰ってくれ。やらなければいけないことができた」
ゆっくりと振り返る。
アウローラは未だにソファに腰掛けたままだ。オレンジ色の瞳は、困惑の色をのせている。けれども、そこは軍部の人間であり、ウォード公爵家の令嬢である。
彼女は、ゆっくりと、一度だけ瞬きをする。
暁色の瞳は、もう揺れていなかった。
「勝負と名がついたものに、負けるわけにはいかない」
凛々しく、強さに満ちた宣言だった。
これが戦場ならば。彼女の言葉は兵士を鼓舞し、彼女の眼差しは兵士に希望をもたらし、彼女の姿は絶望を切り裂いただろう。
だが、ここは戦場ではない。
やりとりをするのは、命ではない。
手に持つのは、剣ではない。
得るものは、国民の安寧ではない。
嫌だ、と。断らない時点で、ノクスの勝ちは見えている。
それでも、彼女が望むならば。ノクスは喜んで彼女の逃げ道を絶つだけだ。
側仕えに連れられて執務室を出ていくアウローラの背中に手を振りながら、ノクスはわらった。
――さて、何からはじめようか。
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