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桜だ、と思った。きっと開花時期を間違えてしまった桜に違いない。閉め忘れたカーテンのせいで、二階の窓の外がよく見える。雲の上に桜の木があってそこから降っているみたいに、花びらが空からはらはらと落ちていた。どうしてそんなふうに降ってくるように見えるのか、風か何かの影響だろうか。空は曇っているが、灰色ではなく光を帯びた白で、ずいぶん明るいけれど朝なのか昼なのか分からない。寝起きのせいで頭がぼうっとする。それでもすぐに外に出て桜が見たいと思った。布団から這い出して、よれよれの寝巻きのまま階段を降りていく。なんだか妙にドキドキしていた。古びたサンダルを足に引っ掛けて、玄関の戸を開けると、そこはもう辺り一面桜色だった。信じられないくらい降り積もっていて、思わずわぁと声をあげる。早く花びらに手を差し入れてすくいあげようとしゃがんだが、触れた指先には期待していた柔らかさはなかった。それはしゃりっと音がしそうな冷たい感触で、近くで見て初めて桜じゃないと気づいた。雪だ。桜色の雪だ。あまりに驚いてただただ手の中で溶けて桜色の雪解け水に変わっていくのを見つめていた。こんなこと見たこともなければ、聞いたこともない。もしかしたら世界で初めての現象なのだろうか。手のひらからこぼれ落ちていく桜色を見ていたら、誰かに今すぐ話さなきゃと思ってユミのことを思い出した。彼女にすぐに電話をしよう、もし電話に出なかったら写真を撮って送ろう。ユミも私も桜が大好きだから、こんな可愛い雪きっと喜ぶ。早く携帯を持ってきて───。
そこで、夢から覚めた。一瞬何が何だか分からなくて、全部夢だと気づいた時に途方もない喪失感を覚えた。目に映る景色は残酷なくらい夢と似ていた。閉め忘れたカーテンから見える真っ白な空、そこから落ちてくるもの。ただ違うのは、それは桜でもなく桜色の雪でもなく、ただの平凡な白い雪だということだ。こんな一月のありふれた景色なんかじゃユミは喜ばない。それに現実の私は彼女の連絡先すら知らない。どうしてユミのことを思い出してしまったのだろうか。
ユミとは高校三年の始まりまでいつも一緒だった。ユミは私の特別で、私も彼女の特別だった。胸が痛くなる思い出のはずなのに、彼女のことを考えると今でもどこかきゅんとする。一年の時に同じクラスになって、互いに本好きだった私たちは図書室で親しくなった。毎日のように会ってるのに手紙を交換したり、他のクラスメイトが知らないような珍しい小説を何冊も一緒に読んだりした。思春期にありがちな思い込みの強さで、その関係に何か運命めいたものがあると信じていた。そこからはありふれた話だ。親友に別の親友ができて、一番だった私は二番になってしまった。ただ、それだけ。もう一度ユミの一番になることを願ったけれど、卒業する頃にはユミと私の関係は平凡な友人になっていた。私に残ったのはユミに対する擬似恋愛的と言っていいほどの甘い記憶と、彼女を奪っていった子に対する本も読まないくせにという理不尽な恨み。失恋に限りなく近い感情を私は卒業後もしばらく引きずっていた。
ユミについて覚えてる小さな断片が浮かぶ。薄い一重まぶたの目が笑った時の形、白い肌に浮かぶ三温糖みたいなそばかす、ふざけてつないだ手が意外とかさついていたこと。二十七歳になってしまった私の中でユミについての記憶のディテールは少し曖昧になっていた。それが良いことなのか悪いことなのか分からない。覚えていてもしょうがないことのような気がするし、忘れたくないような気もする。ユミは今どこで何をしているんだろうか。私はスマホを握りしめて、寝転んだままぱしゃりとなんの意味もなく落ちていく雪の写真を撮った。
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